いのちに感謝して

■新緑の色増す季節となりました
 新緑の中、爽やかな5月の風が肌に心地よい季節となりました。早いところでは田植えが始まっています。いのちの息吹が身に感じられる季節です。
 私はよく真宗他派の本山にお参りさせていただきます。そこで接する御法話やお勤めから新鮮な刺激をいただきます。その中でも西本願寺に近い東本願寺には上洛するたびに訪れている感じです。
 東本願寺には我が国屈指の巨大木造建築である御影堂、阿弥陀堂のほか参拝者が気軽に集える場として、参拝接待所の脇に地上1階、地下2階の「真宗本廟視聴覚ホール」があります。ここでは毎日午前と午後、2回御法話の時間があり、そこでの聴聞が楽しみです。(総会所は別の場所にあって、そこでも毎日御法話を聞くことができます)そのホールの1階がギャラリーになっていて、宗祖親鸞聖人に関する史料や東本願寺の法宝物が展示されたり、大谷派が取り組んでいる現代社会の問題へのメッセージがパネルの形で展示されます。

■「いのちをいただく」
 日時は失念しましたが、昨夏、東本願寺を訪ねた時、ギャラリーでは、食育に関する展示が行われていました。「いのちをいただく」ということがコンセプトになっていたように思います。その中で現在、大谷派で使われている「食事のことば」が掲示されていました。
〔食前のことば〕
 み光のもと われ今幸いに
 この浄き食を受く いただきます。
〔食後のことば〕
 われ今幸いに この浄き食を終わりて
 心ゆたかに力身に満つ ごちそうさまでした。
 重厚な感じがしますね。この「ことば」の一部に聞き覚えがありました。そう40年くらい前になりますか、学生時代に受けた得度の習礼の折り毎食事の度、口にした「対食の詞」です。もう正確には思い出せませんが、自坊にある古い門徒用真宗礼拝聖典の最終ページにありました。
〔食前のことば〕
 われ今幸いに、仏祖の加護と衆生の恩恵とにより、
 この美(うるわ)しき食をうく。
 つつしみて食の来由(らいゆ)を尋ねて味の濃淡を問わじ。
 つつしみて食の功徳を念じて品の多少を選ばし。
 戴きます。
〔食後のことば〕
 われ今、この美わしき食を終りて、心ゆたかに力身に充つ。
 願わくは、この心身をささげて、おのが業にいそしみ、誓って四恩に報い奉らん。
 ご馳走さま。
というものです。「味の濃淡を問わじ」――味が美味しいとか不味いとかは言いません。「品の多少を選ばじ」――品数が多いとか、少ないとか言いません。私にとっては、ここの部分が強く心に残っておりました。また、「誓って四恩に報い奉らん」とは、当時えらい時代がかっているなあと感じたものです。

■新旧の「食事のことば」
 2009年に本願寺は従前の「食事のことば」を改訂しました。
〔食前のことば〕
 (代表)多くのいのちと、みなさまのおかげにより、
     このごちそうをめぐまれました。
 (全員)深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。
〔食後のことば〕
 (代表)尊いおめぐみをおいしくいただき、
     ますます御恩報謝につとめます。
 (全員)おかげで、ごちそうさまでした。

 もう、この「ことば」ななって5年もたちますが、1958年制定の従来の「ことば」になじんできた私には、いろいろ論議された改訂の理由は理解できるのですが、「み仏」がなくなり、「報恩感謝」が前面にあることに今も何かしっくりこないところがあります。

※旧の「食事のことば」
〔食前のことば〕
 (代表)み仏と、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
 (全員)深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。
〔食後のことば〕
 (代表)尊いおめぐみによりおいしくいただきました。
 (全員)おかげで、ごちそうさまでした。

■「食事のことば」のルーツ
 みなさんどうですか。「旧」も良いですよね。因みにこの「食事のことば」や「対食の詞」のルーツは1740年頃、本願寺の第4代の能化となられたのが日溪法霖(にっけいほうりん/1693〜1741)和上が初めて「対食偈」を定められたとことにあるといわれています。これは漢文の偈文ですが紹介いたしますと、(インターネットで探せます)
粒粒皆是檀信 (粒々みなこれ檀信)
滴滴悉是檀波 (滴滴悉くこれ檀波)
非士農非工商 (士農に非ず工商に非ず)
無勢力無産業 (勢力なく産業なし)
自非福田衣力 (福田衣〔袈裟〕の力に非るよりんば)
安有得此飯食 (安んぞこの飯食〔ぼんじき〕を得ることあらんや)
慎莫問味横淡 (慎んで味の濃淡を問うことなかれ)
慎莫論品多少 (慎んで品の多少を論ずることなかれ)
此是保命薬餅 (此はこれ保命の薬餅〔やくぢ〕なり)
療飢与渇則足 (飢と渇とを療すれば則ち足る)
若起不足想念 (若し不足の想念を起さば)
化為鉄丸鋼汁 (化して鉄丸鋼汁とならん)
若不知食来由 (若し食の来由を知らずんば)
如堕負重牛馬 (重きを負える牛馬に堕す如し)
寄語勧諸行者 (語を寄せて諸の行者に勧む)
食時須作此言 (食するときすべからく此の言をなすべし)
願以此飯食力 (願わくば此の飯食の力を以て)
長養我色相身 (我が色相〔しきそう〕の身を長養し)
上為法門干城 (上は法門の干城〔かんじょう〕となり)
下為苦海津筏 (下は苦海の津筏〔しんばつ〕となって)
普教化諸衆生 (普く諸の衆生を教化し)
共往生安楽国 (共に安楽国に往生せん)
という大変長いものであります。
 浄土真宗では、他宗のように食事を一つの修行と捉える考え方はありません。しかし「食に感謝し、食によって与えられた力をもって仏恩報謝に努める」というのが、この「対食偈」にも述べられております。ただ、おいしい食事を目の前においてこれだけの偈文を唱和するのは大変ですね。到底私には覚えられません。ただ、ここに述べられている中身は現在の「食事のことば」につながります。

■「いのちに感謝して いただきま〜す!」
 一昨年、「食事のことば」で嬉しい体験をしました。尾道市に嫁いだ次女の子ども(孫)の祖父母参観に行った時のことです。当日は「お餅つき」体験ということで、はるばる爺馬鹿丸出しで広島まで出かけました。孫は幼稚園の年少組、餅つきといっても杵も臼もありません。餅つき器が蒸しあがった餅米をコネコネコネと回し、あっという間に出来上がり。昔とった杵柄、一丁搗いてやろうかと腕まくりしていた私の出番はなし。
 子どもたちが、それを丸めてあんこをつけて大福(小福?)にしてくれました。さあみんなでごちそうになるという場面、まず園長先生と園の評議員の方が、お米を育てて下さった農家の方(田植えは小学生がしてくれたらしい)と餅つきの準備をして下さった地元のおばさん方に丁寧なお礼の言葉、それが終わるといよいよ「戴きます」です。年長さんの一人が前に出てきました。子どもたちの小さな手は胸の前に合っています。そして50人ほどの園児が声を一つにして発した言葉は・・・
いのちに感謝して いただきま〜す!」
 すばらしい食前のことばです。簡潔明瞭、最も大切なことをズバリ。孫がつくってくれた大福の形はいびつでしたが、とてもとても美味でした。園は尾道市立木ノ庄東幼稚園、温かい地域が子どもたちをすくすく育てています。
 み仏さまのひかりの中、多くのいのちとみなさまのおかげをもっていただく食事、このめぐみを大切においしくいただき、この体と心にエネルギーを満たしてお念仏を申す報恩の生活をしていきたいものです。「いのちに感謝して いただきま〜す!」
南無阿弥陀仏


御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)

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