本願寺日高別院沿革
その後、唯可は石山本願寺の証如上人に謁して、父直光の一宇建立の次第を申し上げたところ、上人は深く感ぜられ、唯可に法名を佑存と授けられ、さらに上人の御自影を賜ったという。また、一私坊より変じて坊舎の号を許され、「吉原坊舎」と称した。 天正十三年(一五八五年)豊臣秀吉の進攻によって亀山城、吉原坊舎は焼かれ、湯川一族はご本尊を守って熊野へのがれた。翌十四年戦火もおさまり、佑存は日高に帰り、郡中僧俗と力をあわせて薗浦の椿原に仮堂を建てた。これが「薗坊舎」である。 その後十年を経た文禄四年(一五九五年)、国主浅野家重臣、佐竹伊賀守の尽力によって、薗浦と島村の荒地を開いて「薗坊舎」をここに移し、「日高坊舎」を建立した。これが現在の「日高別院」である。御坊舎の所在に因み地名も御坊と言い、今の御坊市の起源となった。 毎年、親鸞聖人の報恩講が営まれるが、昔は遠近各地から門信徒が群参し、本堂はあふれるばかりの盛況であったという。そのころの歌に「御坊東町ほうきはいらぬ、おみど参りのすそではく」という文句がある。 篤信な先祖の人たちの法悦の姿が偲ばれるのである。 輪番 升巴 信隆 |
第25代専如門主 日高別院ご巡拝の様子(2016.4.28)
今年の平成28年10月から平成29年の5月にかけて京都の西本願寺で伝灯奉告法要が修行されます。 その法要に先立って、専如門主が昨年の平成27年10月より全国の教区、別院、教堂へご巡回・ご巡拝されており、4月28日 日高別院にご巡拝されました。(※写真をクリックすると大きく表示されます)
日高別院トピックス
日高別院の身代わり阿弥陀如来
日高別院のご本尊は阿弥陀如来です。
別名「身代り阿弥陀如来」とも言われる寄木造りのこの像には、ノドより少し下の部分、胸の中心線にちょっとした穴があります。
天正13年(1585年)、秀吉の紀州攻略で、御坊亀山の城主・湯川直春は、熊野へおちのびていきました。神社、仏閣はほぼ焼き払われましたが、吉原坊舎にあった本尊の阿弥陀如来像は一族とともに熊野に逃れて無事でした。
翌年、本尊を持ち帰りましたが、10年ほどしてなぜか姿を消してしまいました。有田の方にあることがわかり、すぐに取り戻そうということになりましたが、警戒が厳しすぎて近寄れません。このとき、糸田九左衛門という男が単身乗り込み、像を持ち帰りました。追手に無数の矢を射かけられた九左衛門。「もう命はないと思うたのに。よくぞ帰られたもんだ」と、背負っていた仏像を下してみてびっくり。如来さまの胸に矢が突っ立っていました。
「ああ、もったいない。人間の身代りになって下さるなんて」
これが胸の穴のいわれです。