本願寺日高別院沿革


 天文元年(一五三二年)亀山城主湯川直光公は、細川・三好の両軍の抗戦にあたって細川勢に組し出陣奮戦したがついに功ならず、そのため山科本願寺に使をたてて本願寺第十代宗主証如上人に加護を願った。上人は大和、河内の門徒に御書を下され直光公を援勢されたので亀山城に帰ることができた。直光公はこの厚恩を深く感じ、一宇を建立し、次男信春を剃髪させて、唯可と称しその住持とした。


 その後、唯可は石山本願寺の証如上人に謁して、父直光の一宇建立の次第を申し上げたところ、上人は深く感ぜられ、唯可に法名を佑存と授けられ、さらに上人の御自影を賜ったという。また、一私坊より変じて坊舎の号を許され、「吉原坊舎」と称した。

 天正十三年(一五八五年)豊臣秀吉の進攻によって亀山城、吉原坊舎は焼かれ、湯川一族はご本尊を守って熊野へのがれた。翌十四年戦火もおさまり、佑存は日高に帰り、郡中僧俗と力をあわせて薗浦の椿原に仮堂を建てた。これが「薗坊舎」である。

 その後十年を経た文禄四年(一五九五年)、国主浅野家重臣、佐竹伊賀守の尽力によって、薗浦と島村の荒地を開いて「薗坊舎」をここに移し、「日高坊舎」を建立した。これが現在の「日高別院」である。御坊舎の所在に因み地名も御坊と言い、今の御坊市の起源となった。


 現在の別院の本堂は文政八年(一八二五年)三月十五日に建立したものである。第十世賢了の時、当時の篤信家の喜多忠右衛門と津本所左衛門の二人が協力して千両彩票をあがない、もし当ればこれを本堂の再建費に寄進しようと計画した。ところがはからずも宿願がかない早速実行することとなった。二人は発起人となって各地に勧進募財し、また信者小竹佐兵衛の特別な寄進もあって、ついに坊舎の大再建は完成したのであった。様式は本山にならって総けやき造り、鐘楼と太鼓楼を左右に配置し、本堂、書院、庫裡、経蔵、茶所、火番居所、講中居所、膳所などを位置している。


 明治十年九月八日本山より別院の称号をうけ「本願寺日高別院」として現在におよんでいる。

 毎年、親鸞聖人の報恩講が営まれるが、昔は遠近各地から門信徒が群参し、本堂はあふれるばかりの盛況であったという。そのころの歌に「御坊東町ほうきはいらぬ、おみど参りのすそではく」という文句がある。
 篤信な先祖の人たちの法悦の姿が偲ばれるのである。


輪番  升巴 信隆


第25代専如門主 日高別院ご巡拝の様子(2016.4.28)

今年の平成28年10月から平成29年の5月にかけて京都の西本願寺で伝灯奉告法要が修行されます。 その法要に先立って、専如門主が昨年の平成27年10月より全国の教区、別院、教堂へご巡回・ご巡拝されており、4月28日 日高別院にご巡拝されました。
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日高別院トピックス

日高別院にて、みどう花まつり・親鸞聖人降誕会・湯川忌法要が執り行われました。
本堂では、御坊幼稚園の園児と一緒にお勤めし、その後町内パレードにでかけました。
別院西門を出発して、中町を北に進み、元町通りで西に曲がり、元宮通りを南に行き、松原通を経て、別院の西門に帰るコースです。
汗ばむくらいの陽気のもと、楽団により楽が奏でられ、園児たちが楽しく白象を引きながら僧侶ともにパレードしました。


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日高別院にて、定例法座が執り行われました。
本堂では、4月に着任された、花田和樹副輪番のもと、参列されたご門徒の皆様と正信念仏偈をお勤めしました。
 
そのあとは、和歌山教区海草組西方寺の岩清水成海師より、私の帰るご浄土についてのご法話をお聞かせいただきました。
 
日高別院にて、みどう花まつり・親鸞聖人降誕会・湯川忌法要が執り行われました。
本堂では、御坊幼稚園の園児と一緒にお勤めし、その後町内パレードにでかけました。
 
別院西門を出発して、中町を北に進み、大浜通りを越え、日吉田通りを南に行き、そして別院の東門に帰るコースです。
天候にも恵まれて、お稚児さん88名と楽団、そして僧侶もパレードに参加して、楽しいひと時を過ごすことができました。

 
日高別院にて、みどう花まつり・親鸞聖人降誕会・湯川忌法要、そして御坊幼稚園創立100周年記念法要が執り行われました。
本堂では、御坊幼稚園の園児と一緒に「らいはいのうた」をお勤めし、その後町内パレードにでかけました。
 
いざ、パレードに出発です。 別院西門を出発して、中町を北に進み、大浜通りを越え、日吉田通りを南に行き、そして別院の東門に帰るコースです。
天候にも恵まれて、お稚児さん88名と楽団、そして僧侶もパレードに参加して、楽しいひと時を過ごすことができました。

 
2014年12月6日、日高別院の報恩講のご満座の様子です。
報恩講法要としては4日から6日まで計3日間厳修されます。最終日の6日は仏教婦人会の研修やバザーなどもあったせいか、大勢のお参りでした。  
8月4日から5日にかけて、内藤智康和上を講師に迎え、日高別院で夏安居が開催されました。和歌山県内はもちろんのこと、遠くは山口県からの参加の方もおられました。
今年の夏は日照時間が少なかったせいか、昨年に比べ過ごし易い安居でした。
 

日高別院の身代わり阿弥陀如来

身代わり阿弥陀如来 日高別院のご本尊は阿弥陀如来です。
別名「身代り阿弥陀如来」とも言われる寄木造りのこの像には、ノドより少し下の部分、胸の中心線にちょっとした穴があります。
天正13年(1585年)、秀吉の紀州攻略で、御坊亀山の城主・湯川直春は、熊野へおちのびていきました。神社、仏閣はほぼ焼き払われましたが、吉原坊舎にあった本尊の阿弥陀如来像は一族とともに熊野に逃れて無事でした。 翌年、本尊を持ち帰りましたが、10年ほどしてなぜか姿を消してしまいました。有田の方にあることがわかり、すぐに取り戻そうということになりましたが、警戒が厳しすぎて近寄れません。このとき、糸田九左衛門という男が単身乗り込み、像を持ち帰りました。追手に無数の矢を射かけられた九左衛門。「もう命はないと思うたのに。よくぞ帰られたもんだ」と、背負っていた仏像を下してみてびっくり。如来さまの胸に矢が突っ立っていました。 「ああ、もったいない。人間の身代りになって下さるなんて」 これが胸の穴のいわれです。

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