御坊組 寺院紹介 vol.9


常照寺


 当、常照寺は、山号を「浄覚山」と呼び、地域の人々からは「薗の寺」と呼ばれ、現在地は御坊市薗八八五番地で、日高別院の東門から東町通りを約三〇〇メートル南へ行った所に位置していますが、当初には、現在薗寺前通りと呼ばれる所に、民家を改造した程度の庵をかまえて活動をしていたということで、古老の中にはその頃の様子を知る人も多いことであります。

 御坊市史第二巻「通史編U」によると

 「当寺は、もと湯川町財部の安養寺の出張講場で、文政年間(一八一八-三〇)に始まったという。明治五年(一八七二)九月二十五日、本願寺より木仏本尊の下附をうけて道場となり、さらに同十三年寺号の許可を得て独立し、東円山常照寺と称するようになった。もっとも道場とか寺と称しても民家を改造した程度で、規模も小さく、境内地もなかったようである。
 大正七年頃から本堂建立の機運が高まり、土地を求め、諸準備が整って上棟目前の同十年七月十四日、日高川大水害の被害をうけ、用材すべてを流失した。
 しかし、住民檀家の熱意によって翌々十二年春、七間半四面の本堂、山門並びに庫裡を竣工し、御影を安置して内陣を荘厳した。山門はその後とりこわし、昭和二十三年新たに現山門、塀等を新築改修し、また、寺域を拡げて境内を整備した。」

 と記載されています。

 さらに、昭和五十七年には、同和対策事業によって門前も広くなり、庫裡も塀も墓地も新しくなりました。地域の人々が待ち望んでいた鐘楼もできました。これは、昭和五十六年に東京在住の中村政太郎氏によって寄進されたものであります。こうして薗のお寺も立派に整備されて参りました。

 法座は、春の彼岸会、中祖忌永代経、夏の法座、秋の彼岸会、宗祖報恩講、定例法座、毎月のKidsSamgha、除夜会などを行っております。

   

 歴代住職には、開基初代住職が藤原西琳で、二代目は柳岡正教、三代目が柳岡俊教、そして現在の柳岡正澄は第四代目住職であります。
 開基の西琳と二代目正教の間の一時期に釈教琳(安養寺)及び金徳寺(白浜町)が代務を務め、また、第三代俊教と現在の正澄の間には孝英(正澄の父)がありましたが、若くして死亡し、住職を継ぐことなく現在に至っております。
 このような時期もあって、三代目住職俊教は、約六十年の長期にわたって住職を務め、保護司などの職を通して地域の人々とのかかわりも深く、現在の常照寺の基盤を造った最功労者であると申せましょう。




住職  柳岡 正澄    





(過去の「寺院紹介」はこちらからどうぞ)






▲ページトップに戻る