御坊組 寺院紹介 vol.2


光源寺


 光源寺の開基は、文明年中(一四六九〜一四八四年)と、享保十年の「寺方書上」に記されている。

 大正三年の「丹生郷土誌」は、当寺の由緒を、開基は明らかではないが、古くは古義真言寺院であったのを、文明年中に真宗に改めた、と述べている。

 また、「日高郡誌」には、「寺方書上」の記事に「天正十七年(一五八九年)手取城主玉置直和から、高十石餘免許された」とある。
 後、玉置氏の家臣木坊子太夫の末流宗顕が寺を中興し、本尊、阿弥陀如来の下付を受け、寺号・光源寺の公称を許されたという。
 延宝六年(一六七八年)の『日高鑑』和佐村の条に「壱軒真宗」とあるのが、当寺と思われる。

 川辺町内には、安珍・清姫の伝説で有名な、道成寺をはじめ、和佐の開山と親しまれている、法燈国師開基の光性寺等、多くの寺院が現存するが、梵鐘が現存しているのは、和佐の光源寺のみである。

 しかし、この梵鐘も始めから光源寺にあったものではない。

 正平十三年(一三五八年)三月十五日、当時、土生城の城主であった源万寿丸の母覚性禅尼が、荒廃寸前の土生八幡神社と別当寺であった尊光寺を再興した時、万寿丸が八幡神社に寄進したもので、明治維新の神仏分離以降不要になったものを、明治三十六年、当時の金で三百三十円で光源寺が買い取り、翌年、境内の鐘楼に納めたと言われている。

 また、正平十三年に造られたこの鐘は、平成十七年、四百三十年ぶりに道成寺に里帰りした、京都・妙満寺所蔵の正平十四年(一三五九年)三月十一日付の鐘銘に、「紀伊州日高郡矢田庄文武天皇勅願道成寺冶鋳鐘」と刻まれ、この鐘が、道成寺の鐘として鋳造されたことがわかり、鐘銘には、鋳造の檀那として、源万寿丸の名が刻まれている。

 当寺の梵鐘は、寛延ニ年(一七四九年)二月十五日、若野村の津村正重により改鋳されていることも銘文から知られる。京都・妙満寺に所蔵されている旧道成寺鐘と、全く同文で、ただ、相違しているのは、最後に、八幡宮御神前鋳鐘飛鳥宮とあるのみであって、その何れにも、「紀伊州日高郡矢田之庄千手里万寿丸」と刻んでいる。
 このことから、兄弟鐘といわれ、平成十七年十一月六百六十年ぶりに対面をはたしたところである。



  住職  木坊子 俊紀    



(過去の「寺院紹介」はこちらからどうぞ)






▲ページトップに戻る