御坊組 寺院紹介 vol.14


金蔵寺

    

 金蔵寺は、寺伝によると、文明一八年(一四八六)小熊村の百姓権太夫が本願寺第八世蓮如上人が(文明年間)紀州巡錫の折、海士郡冷水浦(現海南市)で上人の御親教に浴して、六字名号を授けられ、名を了西と改め、自宅を道場となしたのに始まるとあります。また興国四年(一三四三)の「一向専修念仏名帳事」に、ヤタに三名・コクマ二名と記されていることから、文明以前すでにこの地に、真宗の篤信者がいたものと思われます。

 道場は、初めは岡の段という小高い丘上にあったが、参詣者の便を考え正保三年(一六四六)現在地に移ったと当山寺誌に記されています。
 その後、本願寺第十世准如上人から方便法身尊形を賜わり、寛文十二年(一六七二)に金蔵寺の寺号が許され、元禄二年(一六八九)木仏本尊が下附されるに至って、次第に現在の形態が整ってきました。そのころは萱葺三間四面の小堂であったが、宝永四年(一七〇七)の大地震で破損したため、二年後に再建されたと、当山所蔵の古文書や、矢田村誌に書かれている金蔵寺の略史であります。

 また、このほかに「興正寺殿」あての文書も残っているところから、明治以前は興正寺末であった形跡を伝えています。木仏御本尊阿弥陀如来の御裏書には「興正寺門徒性應寺下紀州日高郡土生庄小熊村」とあります。

 次に私の曽祖父、第十三世堀貫嶺は明治八年、境内地に約七・二七米に六・二六米、十四坪の校舎を建て、自ら教師となって小熊村落小学校を開き、明治二十年四月校舎を移転し、現在の川辺西小学校(旧矢田小学校)の創始者として初代校長を勤めたと、矢田村誌や川辺西小学校百年誌に記されています。後年、曽祖父は本山から得業の僧位を授かり、本願寺派布教使として県内をはじめ全国を巡回、当時は人力車で各地を訪れたということです。門信徒をよく教化し、時の御門主様から拝領したという白帯が、古くなり傷んでいますが今も大切に保存しています。

 宝永の大地震後に再建された元(もと)の本堂は、以後明治二十年代、昭和四十年、平成八年と幾度となく修理改修を重ねてまいりましたが、老朽化著しく三百年を経、平成二十三年に新築計画が策定され門信徒ならびに有縁の方のご懇志により、平成二十八年五月に完成し、平成二十九年一月落慶法要をお勤めさせていただきました。
 法要を待たずして前住職は二十八年七月に逝去しましたが、内陣工事中であったなか、一時退院した折に新築された本堂を目にし、何度か晨朝勤行のお勤めができたことが幸いであったと思っています。

 当地小熊は他地区からの転入が多く人口増となっていますが、旧来の住民門信徒の方々においては過疎化進んでいて、昨年秋初めて「墓じまい」、「仏壇じまい」を執り行った次第です。本願念仏のみ教えを自らの上に頂き法義相続に励む所存ではありますが、自身の身と寺院将来に不安を感じざるを得ない今日この頃であります。


                              合 掌      

金光山 金蔵寺   堀 秀樹    





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