御坊組 寺院紹介 vol.17


光明寺

 わが紀州へ浄土真宗が広まるようになったのは、戦国時代のあの騒がしい最中、本願寺第八世蓮如上人が各地にご教化の旅に出られてからのことだといわれております。

 上人が紀州へおいでになると、いつも名草郡の永穂権守という豪族の家に立ち寄られたそうであります。権守は上人の直弟子の中でも秀れた人物の一人でした。 その権守と大層親しい友達に三輪正寛という武士がおりまして、その祖先は大和の人でしたが、正寛は姫路で育ち、成人してからは立派な武士になったそうですが、後に、わけあって浪人となり、紀州牟婁郡鉛山で採鉱業を営むようになりました。

 正寛はよく権守の家に行っては、真宗の教えや蓮如上人のおうわさなどを聞いていましたが、そのうち権守の勧めなどもあって、やがて鉛山の自家を寺とし、長男道願を僧としました。(これが今の白浜町湯崎にある金徳寺である。)

 さて、道願あるとき京へ上るとて権守の家に泊ったところ、そこに三尾浦から奉公に来ている者がおり、
「私の郷里三尾でもだんだん真宗に帰依する者が多くなってまいりました。そこで、もしあなた様さえよろしければ、どうか三尾へおいでになって寺をお開き下さいませ。」
と懇願しました。
 道願は「そうか、それでは家へ帰って父ともよく相談してみよう。」といって別れましたが、やがて三尾浦の門徒の人々が打ち連れて鉛山まで頼みに来ました。 余りの熱心さに道願は辞する由なく、遂に鉛山の寺や田畑を捨てて三尾に移り真宗の庵を開きました。 それが永禄六年(一五六三年ごろ)のことで、これが海南山清浄院光明寺の開基であります。

 ところが次の代(天正十四年、住職道浄のとき)に火事にあって全焼し、移転再建しましたが、その後、享保九年に至り、また移転改築しました。 その時の住職は権律師円了でしたが、円了は貧乏であった村人をたくさん引き連れて、房総(千葉県)方面へ出稼ぎに行かせたり、また高度の漁法の技術を学ばせに行かせたりしました。(それは何回となく出かけております。) そのようにして円了は村を救い、村の発展に尽くした人物でしたので、本堂移転改築に当っては、房総に出かけている村人達は、燃ゆるが如き愛郷崇祖の誠心と仏恩報謝の一念から、奮ってその資金を捧げ立派な本堂が出来上がったのであります。

 その後、時移ること久しく、立派な本堂もだんだん朽廃しましたので、大正七年から改築の計画を進め、昭和四年三月起工、翌五年七月に現在の本堂が見事出来上がりました。
 それにはカナダに渡っている多くの人々も祖志を継いで、たくさんの浄財を喜捨いたしましたので、工事は最善をつくし美をつくすことが出来たのであります。

 住職は初代道願から三輪家代々相承けて、私(釈映信)で第十五代に当ります。 その歴史のうち、第八世円達は「窓臥」と号し、和歌を好み、大阪の歌人尾崎雅嘉の門に入り精進すること多年、実に多くの詠を残しており、すぐれた和歌と今日でも評価されております。
 わが日高地方では実に最初の歌人でありました。その一部を紹介します。


・妙願寺(志賀)に詣でしとき、暑さのあまり井の水をむすびて
 をのづから心も凉しこの寺の
 あか井のみづを汲みやかはして

・網引き
 浪かぜもしづけき三尾の朝和に
 あびきせんとやあこの呼ぶこえ

・母の形見に残る鏡を見てよめる
 折々に見てはなげきのますかがみ
 かげたえはてて人をしたひて

・糸桜
 くりかえし又もきて見む糸さくら
 ふきなみだしそ春の山風

    


    

住職  三輪映信    





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