御坊組 寺院紹介 vol.24


明鏡寺

 野口村大字岩淵郷(岩内)羽衣山明鏡寺、元、吉祥寺として、真言宗であり、永正八年頃真宗に改宗、寺号も明鏡寺と改めたり。

 昔日、岩淵郷は近衛家の勢力下にありしが、その後、湯川氏に屈すとあり。尚、当地は王子神社の参拝の要路で、一つの基点ともなり、公郷諸公の熊野参りの道すがら、宿場のような土地であり、相当数の人馬が駐屯したとも伝えられているが、現在は熊野神社に合祀されている。正しくは「也久志波王子」と記されている。

 当時岩淵郷は、前記の如く近衛家の所領であり、貴族の信仰も深かりし熊野権現の参拝要路の基点でもあり、この地に位置するが故に、当時の権力者との間に何かつながりと特典があったのではないかと思われるのは、寺格が最高であること、現代では考えられない事実、又、各所に残る貴族の古墳、あまりにも現実とかけはなれているように思えてならない。 考えられるのは、当時の岩淵郷は、現在地ではなく、少なくとも平地にあったのではなかろうか。

 これもあくまで憶測だが、今から百年位前、前住職の覚浄が二十歳の頃、天田橋上流500メートルの川底から、何回かの増水から水流の変化のためか、直径4メートル〜5メートル位の楠の大木の根が数本、埋もれていたためか黒々と姿を現し、村人と共に現地に行き、かいだ楠の香を今も忘れることは出来ないと聞いている。 古老は、明鏡寺はこの地にあったのに間違いないという。治水の行政も現在でもない時代のこと、大洪水と共に寺は流され、寺も家も記録も流失してしまったとも考えられるが、それが本当だという資料はなに一つない。 当時日本は軍国主義花盛りの、現在の如く調査もなければ注目する者もなかった。

 楠の大木は再びその姿を見ない。しかし、色々と考えて見ると、元和元年(一六一〇)大洪水や、宝永年間の大地震等のため、すべて四散したと考えられる。 今一つは、前記の通り、熊野権現参道の要路のため、貴族権力者の支持に甘え、大衆(檀家)に支えられた寺の在り方でなく、いたずらに権力者に媚びることに専念し、権力者が衰退すれば共倒れのようなことではないかと思われる。 それに加えて、明治初年の排仏毀釈は、尚、拍車をかけたのではないかと思われる。
 資料のない昔と現代の矛盾「昔の剣、今の菜切り包丁」

 過去帳から年代を見ると、現存している年号で最古は、享保(三百七年前)元文、寛保、延享、寛延、宝暦、明和、安永、天明、寛政、享和、文化、文政、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、 特に安政年間、智教は寺子屋を盛大にしたことも記録されている。

 尚、昭和三十六年九月十六日、第二室戸台風で本堂が全壊した。その後、仮本堂を建て現在に至っている。 ありがたいことに、本堂は倒壊したが不思議なことに阿弥陀様は無傷であった。






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