御坊組 寺院紹介 vol.25


明応寺

     

 「道場」の伝統を大切に

 国道四十二号線を塩屋から王子川に沿ってさかのぼること約五キロメートル。南北を小高い山や段丘にいだかれる様に広がる静かな田園地帯、ここ、印南町大字南谷に樹林山明応寺がある。

 明応寺の起源については、記録など残されておらず、定かでない。日高郡誌によると、“安永五(一七七六)年三月七日、木仏本尊下付、同日、寺号公称を免許される”とあり、初代住職は翫月となっている。しかし、それよりも百年前、延宝六(一六七八)年の日高鑑には、南谷村に寺二軒、一軒は浄土宗、一軒は真宗と書かれている。真宗の寺とは明応寺にちがいない。
 寺の過去帳を見ると、貞享年間から記載されている。したがって、当寺の開基は、延宝以前であり、初代住職といわれる翫月は、中興上人であろうと思われる。
 翫月は俳聖とうたわれる松尾芭蕉の直弟子で富山県氷見町済藤家から、元禄年間に当寺に入寺した事実が近年明らかになり、その後、書状も発見されている。
 翫月は、どの様な経緯をたどって当寺に入ったのか、その後の様子についても詳かではない。しかし、この静かな里の草庵から、朝夕流れたであろうお念仏の声が、俳句を人生の友に、漂白の旅を送る俳人の帰るあてない身のわびしさ、どうすることも出来ない空しさが、足をとどめさせたものであろうと想像される。

 何はともあれ、三百年の昔から、宗祖聖人によって開顕された“真実の救いを与えられるみ教え”浄土真宗がこの地に息づき、明応寺を念仏、聞法の道場として広まったのである。そして、移り変る時代の中で、いつも人々の心のよりどころとして今日に引き継がれ、土地の人々から、寺のことを、明応寺といわず今も「ドウジョウ」「ドウジョウ」と呼び、親しまれている。

 中興の師、翫月から数えて、十代目に当たる正晋師が往生を遂げられた後、現在は法類である専福寺が代務の任を負っている。お念仏のこころをいただき、聞法の道場として、明応寺の伝統を大切に守り育てていきたい。
 




▲ページトップに戻る