御坊組 寺院紹介 vol.26


専福寺

     

 当寺の来歴について、名張の夏見原(なつみがはら)に発するとの伝承がある。現在も通称夏見廃寺・昌福寺跡が公園として整備され、夏見廃寺展示館が併設されている。どこまで関連を証明できるかは未知数であるが、今後の研究に期待したい。

 初代泰能は、天文二十一年(一五五二)当寺住職に就任した。
 常慶−常翁−常西−常仙(享保五年寂)−俊道(天明元年八月寂)−常観(天明十五年十月寂)−聞道(天保十四年五月寂)−智道(明治六年十二月寂)−常俊(慶応三年七月寂)−諦厳(明治三十七年六月寂)−到岸(明治四十年七月寂)−善教(退院)−重雄(昭和二十六年十月寂)−正宣と次第して、十六代現在に至る。

 現在奉懸中の七祖並びに聖徳太子像の幅の裏書きに、
「宝歴六丙子年(一七五六)五月七日、興正寺門徒性応寺下、紀伊国日高郡山田庄印南原村専福寺々物、願主釈俊道」とあり、派の推移を物語る。
 初期の建造物などは「本堂は四間に五間にして庫裡等あり、昔時は鐘楼ありきと伝ふれども現存せず」との記録のあることから、本堂は現在の規模と殆ど同じであったらしい。

 前の本堂については、再建当時の記録がある。昭和の修復の折、後門天井裏から見出されたものであるが、寛政四年(一七九二)の上棟である。住職は七代目常観の代である。「棟梁、御坊西町大工喜右門」とある。上棟までの門信徒の労力奉仕千百日。百九十年を経て老朽化した。真宗寺院らしくもなく、境内に薬師堂がある。(祠=ほこら=の呼び名が相応しい)。前の本堂は、殆んど一本の松の大木で建てられたといい、その松の根方にましましたこの薬師仏を松の木とともに迎えて、永く謝意を表してお給仕しているのだという。教義以前の問題であろうかと思い、秋は小屋根に積んだ紅葉を、そっとしておく。

 庫裡は、昭和三年と、昭和五十三年に再建された。三代前の庫裡は、土間が広く、ばくち好きの住職が、勝って取り上げて来た馬をつないで顰蹙を買ったと、古老が話して聞かせた。その庫裡もその馬も、時の住持も、今はもうない。
 昔の鐘楼あとと思しきあたりに、一本の桜と、桜に接して若い兵士たちの墓が整列している。

 前の本堂の壁に、寺子屋に集ったやんちゃ村童たちを髣髴させる落書きが残っていた。明治以前に過去帖にのせられた人々の名前が、幼い字で墨書されていた。明治九年富山小学校(のち稲原尋常高等小学校と改称)として近代教育へ脱皮した。初代校長は、十一代目諦厳であった。本堂は仮校舎として、なおしばらく使用された。

 昭和六十年、本堂が再建された。六間×七間、木造、入母屋造り瓦葺である。同六十二年には本願寺24世・即如門主のご巡教を仰ぎ、落慶法要を勤修した。これからまた二百年、浄土三部経が読まれ、大悲が敷衍される場として柳渓山陰に佇むことになる。
 また、美浜町和田の高野實氏より梵鐘が寄進され、門信徒一同の懇念を結集して鐘楼も再建された。大晦日には、子どもたちが集まり、村に梵音を響かせてくれる。

 平成7年、蓮如上人500回遠忌に際し、現住職へ法灯が渡された。次代へこの灯火を引き継ぐべく報恩謝徳の日々をおくりたい。


 




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