御坊組 寺院紹介 vol.15


正覚寺

 御坊から約十キロ上流の松瀬、全戸数三十数軒の小さな在所にあります。

 昔々「小さい松瀬にすぎたるものは 酒屋三軒 寺二軒」と唄われたそうです。 酒屋は今はもうありませんが、二軒の寺は小さいながら今も健在です。 大変法義の篤い在所であるということでしょう。
 それでも二ヶ寺の門徒数は極少で、昔から住職は兼業を強いられました。

 
 
 私の父は、現有田川町内の農家に生まれ、和歌山市の寺の役僧を勤めていました。 母は御坊市善妙寺門徒の農家に生まれ、大正十五年、後継者がなかった正覚寺に縁あって入寺(昭和三年婚姻)しました。 父母は御門徒と寺を守りながら、当時としては珍しく貴重なレモン栽培に取り組み、子育てと生計を立ててきました。
 六番目の長男の私に「おまえは寺に生まれて良かったの」が父母の口癖でした。
 かくして、私は解脱山正覚寺十一代の住職に就いたのです。

 「川越長右衛門、出家して当寺の祖となる。 松瀬字下山の麓に草庵を営み、寛永七(一六三〇)年十月七日寺號公称、慶安三(一六五〇)年四月十六日木仏本尊を下附せらる。 明暦年中、寺を夏見に移し、此処にて火災に罹り一山焼失す。 文政四(一八二一)年現位置に移転再建す」とあります。
 
 又、この本堂再建について、次のような話も記されています。
 「明和年間当山第六世教順、檀家某の女、幼にして不幸父母を失へるを憫み、養育の労をとる。 女、後、京都笹屋某に嫁す。夫妻並に篤信の聞あり。晩年夫を失ひ妙寿尼と號す。 宗祖、中祖、行化の旧蹟を慕ひ、諸国を巡拝す。 又、幼時の恩義を謝せんが為、当寺本堂の再建を企図し、文政四年某の工を竣へ、上棟式を行ふ。之を現今の本堂となす。」(日高郡誌より)

 このような小さな在所でも、長い歳月には色々なことがありました。

 私が小学二年生の時、日高地方大水害(昭和二十八年七月二十八日)が起こり、本堂が避難所になりました。 暑い中、大人は復旧作業に大変だったと思いますが、子どもは夏休みで遊んでばかりでした。 以降、毎年紀伊半島をおそう台風は住民の心配事でした。

 そして、長い間の願いであった庫裡と墓地の裏山の崩れを防ぐため、平成十七年、急傾斜崩壊対策工事が行われました。 これには、私も「早期実施」をお願いしに何度も役場に行ったことでした。 最近の全国各地で起こる自然災害を考える時、やってくれて良かったと思います。 あとは、本堂全体の老朽化がすすみ、改築、建立という大切な事業が私達に課せられています。



        

    
 



 尚、本堂の欄間には、中国における孝行(二十四考)を描いた彫刻が設けられています。

     

住職  川越正博    





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