御坊組 寺院紹介 vol.3


善妙寺


 当寺の寺院紹介にあたり、現在法務をお任せいただいております私、橋本信子の祖父、木下靖夫の文献を引用させていただきます。

 善妙寺は詳しくは樹閣山、無量院、善妙寺と呼ばれたもので、この山号、院号はいつ下付されたか明らかではない。文久二年(一八六二)八月中旬に書かれた寺誌によると、百五代後柏原天皇の永世十六年(一五一九)四月二十一日付にて、大谷本願寺第九代釋実如より方便法身の絵御本尊の御裏書に、「紀伊国日高郡島村道場」と記して下付され道場の開基仏となってある。

 この永世十六年より約四十年前に本願寺第八代蓮如が、文明十八年(一四八六)紀州下向、熊野参詣を転機として、先に高家の了忍房達によって育てられ、西円寺文書の中の名を列ねた一ニ○余名の子々孫々の中から、蓮如のあたたかい御教化によって念仏の種子が花開き、きれいな他力念仏の実を結んで出来た島村道場もその一つであろう。
 しかし、この寺誌では永世十六年から元和三年(一六一七)に一世の玄尊が没するまでの九十八年間は「住持不知」と記されただけで、その間の島村道場主のことは明らかにされていない。ただ、「紀伊名所図絵」の善妙寺の陶器の下に、寺誌では住持不知の九十八年間の中で、永禄六年(一五六三)に島村道場(本堂)が創建されたことを明らかにしてくれたことは、ある意味でよいことである。

 一方、島村道場の住持不知の九十八年間は、大谷本願寺にあっても外部から最も多難を蒙った時代で、天文元年(一五三二)山科本願寺は日蓮宗徒達のために焼滅され、元亀元年(一五七〇)から十一年の間、本願寺を中心として織田信長との間に石山戦争があり、十一代顕如が紀井の鷺森本願寺で四年の間、移住するという異変の時代でもあった。
 信長、秀吉ら家康と戦国時代も終わった徳川幕府は、中央集権的な封建体制の確立を図ると同時に、各地における諸大名の背後にある仏教教団に対しても、強い統制を加えたのが寺院法度、やがて本願寺もその適用をうけたのである。
 その第一は寛永九年(一六三二)江戸幕府から正式に末寺帖提出を指示してきたのであるが、その翌十年、末寺帖を幕府に提出したが、脱漏があまりにひどかったので、元禄五年(一六九二)再び調査を行って末寺帖を提出させた。これには木仏安置、寺号公称の背景には切支丹宗門改め(寺請制)門徒組織から檀家制の実施、続いて各宗寺院が過去帖の整備が必要だったのである。
 即ち島村道場は御坊三六ヶ寺の中では遅い方で、三世玄順の延宝四年(一六七六)木仏本尊の安置、更に貞享三年(一六八六)善妙寺の寺号公称は共に本願寺十四代寂如より下付され、これに従って善妙寺の本堂は檀信徒の寄進によって創建し、住職玄順が慶讃法要を厳修したのである。

 善妙寺と公称されてから当寺の過去帖は元禄三年(一六九〇)から記録されたのをみると、他県はいざ知らず、御坊組の三六ヶ寺は寺号公称の早い寺もあるが、大体元禄年間以後ではないだろうか。
 第二は寺院としての形態を整えるために、内陣の荘厳即ち本尊の宮殿、須弥山、前机、登高座並に親鸞、蓮如、七高僧、太子等の絵像がまつられていったのである。
 公式に住職として公認される以上は、今日でいえば得度(自剃刀)学林県席(宗乗、余乗の研修)をはたした上で、当寺の住職としての資格を公認されたのである。今日からいえば、大体二百年前ではなかろうか。

                             善妙寺 木下靖夫


「参考」
 御坊市史第二巻九一一頁の「日高の真宗」から九六九頁まで(真宗の諸寺院)をみて下さい。



 追記:

父 道朗の代、平成五年に本堂屋根修復、平成十一年に庫裏再建。兄 眞人の代、平成二十八年に本堂天井画修復ならびに落慶法要を無事に執り行わさせていただきました。
 多くのご門徒様、関係者各位の皆様のご協力、ご尽力に感謝申し上げます。



      



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