弔辞

 いよいよ年の瀬、あわただしく過ぎたこの一年でありましたが、組内寺院様方のご協力を得て、組会で決定していただいている事業はほぼ計画通り進めることができております。
 今年は、宗門にとっては6月6日に「法統継承」ということで、御門主様のお代変わりがなされた節目の年でありました。また、総局の交代もあり、何かと本山からの連絡が多い年でした。
 ただ大変、寂しいことでありますが、今年、組内ではお二人の元副組長さんがご逝去されました。8月4日に安楽寺のご住職伊藤隆文師が、9月25日には天性寺前住職の津本宗禎師が往生の素懐を遂げられました。いずれも、住職として、御自坊の門信徒教化に尽力された他、永年に渡って組役員として組の活動を中心的に支えて下さいました。ここに、両師の葬儀にて御坊組を代表して組長として申し述べた「弔辞」を再録させていただき、ありし日を偲ばせていただきたいと存じます。なお、文中の写真はご遺族から提供されたものです。

■安楽寺伊藤隆文師 弔辞
 謹んで 安楽寺住職伊藤隆文師のご葬儀に当たり、御坊組を代表して、衷心より哀悼の意を表します。 師は二ヶ月前、六月二十九日の組内会には、いつもと変わらぬ様子で御出席下さり、私にも親しく声をかけて下さいました。この日、この度のご病気のことなど全く感じさせるものがなかったことは、その場におられた法中方が等しく思うところです。師は昭和二十三年九月、安楽寺住職伊藤清隆師の御長男として当地に誕生されました。学業に秀でた師は日高高校を経て、東京外国語大学でフランス語を修められました。学業を終えられても就職のため東京にとどまられました。しかし、昭和五十二年一月、御尊父前住さまが五十九歳という若さでご逝去。住持を失った安楽寺の門徒衆は、隆文師の帰郷、住職継職を強く望まれました。当山の開基は寛永十年まで遡ることができ、組内屈指の伝統寺院であり、野口の地はそのお歴代の御教導よろしきを得て、御法義厚い土地柄となっています。師はその御門徒方の熱い思いに応えて帰郷、直ちに得度、教師資格を取得し、安楽寺の住職に就任されました。こちらに帰って後は、請われて高校の非常勤講師として英語を教えられることもありましたが、あまり時間に縛られることは好まず、今日まで法務を第一に勤しまれました。師の住職歴は四十年近くになります。この間、安楽寺の興隆とお念仏繁盛に尽くしてこられましたが、あたたかく、気さくで裏表がないお人柄は多くの御門徒さんが慕うところです。これは僧侶仲間に対しても同じです。お酒が入ったら一日に何度もかかってくる電話「イツキさんよう、ちょっとワイの話、聞いてくれるか、どうでもええことやけど・・・・」と。 発想がユニークで、その内容にはついてゆけないことも多かったですが、もうその電話のベルが鳴ることはないと思うと寂しさが募ります。御坊組役員としては、平成三年三月から平成六年三月まで、副組長として組の活動を引っ張ってくださいました。 しかし、組で御住職が最も力を注がれたのは、仏教壮年連盟の育成でありました。昭和五十二年四月の連盟発足時より寺方の事務局に入り、浄国寺の三原義弘氏をサポートして様々な活動を展開されました。平成十八年十月、三原師が組長に就かれた後は、一昨年の役員改選まで伊藤氏が事務局の中心を担われました。大変、責任感の強い方で、年二回の「仏壮会報」の発行にあたっては毎回納得がゆくまで何度も安楽寺の庫裏に役員を招集し、編集作業をリードして下さいました。会報が完成し、役員が手分けして各寺に配布しますが、それが済んだあと恒例となっていた隆文さんを中心とした「押し上げ」がとても楽しかったことを今思い出しています。 師は、照れ屋で皆の前ではおっしゃいませんでしたが、一緒に仏壮の仕事をさせて頂いた私にはよく、役員さん方への感謝の思いを述べておられました。師、在任中の委員長木下修一さん、田中孝司さん、細谷広延さん、そして林拓治さん本当にお支えありがとうございました。師に代わって御礼申し上げます。 ちなみに、この組仏壮への師の長年にわたる貢献に対して、今年六月一日の組仏壮総会で「特別表彰」を受けて頂けたことは誠に幸いでありました。享年六十五歳、はたから見ると、平らかな人生とは言えないかもしれませんし、早すぎるお別れですが、「老少不定」の事実を身をもって教えて下さった命終でありました。ただ、長女の明子さんが僧籍を得られ。まもなく淳子さまも得度してくれるようになったと、三ヶ月程前でしたか、うれしさを隠しきれないように話して下さるお顔が瞼に残ります。 組としても、今日までの御住職の御化導に感謝するとともに、安楽寺の門徒衆と法嗣であられる明子様、淳子様をお支えすることをお誓いして弔辞とさせていただきます。      
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 二〇一四年八月七日  
御坊組組長 三宝寺住職 湯川逸紀


■天性寺津本宗禎師 弔辞
 謹んで 天性寺前住職津本宗禎師のご葬儀に当たり、御坊組を代表して、心より哀悼の意を表します。 この度の前住さまの闘病の厳しさには、組内等しく心配しておりましたが、このように早くお別れせねばならないとは、痛惜の念に耐えません。 師は昭和十八年福井県坂井市蓮長寺に誕生され、長じて宗門の北陸高校・龍谷大学に学び、卒業後、宗務職員として大阪津村別院に奉職されました。昭和四十三年、当時の津村別院副輪番雑賀貞信師のお導きで、当天性寺の津本京子さまとご結婚、昭和四十五年には法嗣として当山に入寺されたと聞き及びます。その後、まもなく先代の津本鉄城師の退任を受け、当山第十二世住職に就かれました。京子様の御尊父様が早世されていましたので、御門徒にとりましては、待ちこがれたご住職の誕生であったこでありましょう。 前住さまは、一昨年ご長男の芳生師にその職を譲られるまで、法務に専念、住職として寺門興隆と御門徒教化に尽力されました。現在、組内で常例法座を行っている寺院は極めて少数にとどまりますが、御当山ではずっと毎月十六日に法座がもたれています。これは、「お念仏相続は聴聞から」という前住さまの一貫した姿勢の現れでありましょう。 一方、蓮如上人五百回遠忌、宗祖七五〇回大遠忌という節目の大法要にあっては、コーラスやバイオリンコンサートなどを取り入れるなど工夫を凝らした法要を厳修され、この大本堂がいっぱいの参拝者であふれました。堂宇・境内地の整備も怠りなく、清浄でいつも心地よく、御門徒をお迎え下さるお寺にして下さいました。そして当寺山門前にはいつも、手書きの法語が掲示されています。温かく、時には厳しく、そして尊い言葉は目にする人の心を打ちます。先代鉄城師が大正十二年に始められたこの掲示伝道を前住さまが大事に引き継いでくださっていました。道行く人への大切な教化伝道でありました。 前住様には寺門の護持に力を注がれるとともに、御坊組や和歌山教区そして日高別院の運営に大きな役割を果たされました。昭和五十二年十一月から平成三年三月までの三期半、十四年の長きに渡って副組長として、御坊組の活動を中心的に支えて下さいました。また長年、組の仏教婦人会連盟の事務担当として、その育成に努められたことも忘れることはできません。 御当山はここに写真がありますように昭和六十二年十月の即如門主組巡教の折りには行事寺院をお引き受け下さいました。御門主一行への遺漏無きご接待と組内門徒への温かいおもてなしは記憶に残るところです。また、その公正無私なお人柄は組外にも知られ、教区の宗会議員選挙の選管委員長や、本派社会福祉推進協議会和歌山支部の監事・評議員としてもご活躍されました。また、他宗派寺院方の信望も厚く、今日まで市の仏教会会長でもありました。 当山は日高別院に最も近くに位置する寺院で、前住様は昭和五十三年十二月より別院責任役員に就任され、今日まで日高別院を支えてこられました。また、別院の法要委員としても報恩講や永代経、降誕会などの法要執行にお力を尽くして下さいました。仏華の名手で法要前内陣荘厳を立派に整えてくださるお姿が印象に残ります。 師は、寺、教団の外においても様々な役職に就かれました。御坊市民生委員の会長や法務省人権擁護委員としてのご活躍は広く市民に知られるところです。何事にも誠実に向き合われ、ダーナの心で社会奉仕に勤しまれるお姿は御門徒だけでなく、広く御坊市民から厚い信頼と尊敬を受けておられました。また、日高別院の礎を築いた湯川直光公らを顕彰する湯川会の副会長を長くお務め下さり、ゆかりの亀山城址の保全に心身を砕いてくださいました。 七十一歳、御住職の任は終えていたとはいえ、前住様の豊かな法務経験は現住職だけではなく、組内法中にももっと伝えていただかなくてはならないところですが、当地にご縁を結んでいただいて、四十五年、まことに尊い生き方の後ろに多くの「足跡」を残してくださいました。私ども組としても、それに学び、お念仏興隆のために邁進いたすことをお誓い申し上げるととともに、師の生前の御功績、ご苦労に心より感謝申し上げ弔辞とさせていただきます。  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 二〇一四年九月二十九日  
御坊組組長 三宝寺 湯川逸紀


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