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『阿弥陀如来は心の中に』 真宗高田派「一光三尊仏」御開扉のご縁を頂いて

(写真・文) 門徒推進員 専福寺門徒 細谷廣延氏

■阿弥陀三尊のいわれ「早離(そうり)と即離(そくり)の兄弟の物語」
 浄土真宗と浄土宗のご本尊は、ともに阿弥陀如来、だが両宗派において少しの違いがある。浄土真宗は、一向宗(一仏宗)といったくらいで、阿弥陀如来様のみ。それに対して浄土宗は、阿弥陀如来様の両脇に仏様を従えている。向かって右側が観音菩薩様、同じく左側が勢至菩薩様、この仏様のことを脇侍(きょうじ・わきじ)脇士・夾侍( きょうじ)、脇立(わきだち)と色々の呼び方をしている。中心の仏様(中尊)の教化を補佐する役割をもつとされている。浄土宗の寺院には、阿弥陀様を中尊として三体が、別々に鎮座している。この形式を阿弥陀三尊と言い、仏教における仏像安置形式の一つである。観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」をあらわす化身とされ、勢至菩薩は「智慧」をあらわす化身とされる。
 この謂われをたずねてみると・・・昔、あるところに、早離と即離という幼い兄弟がいました。しかし、ふたりの両親は、彼らの成長を見る事なく、亡くなってしまいます。
 途方に暮れている兄弟に、ある男が「両親に会わせてやろう」と声をかけます。その幼さゆえ、悪人の言う事を真に受けてついて行った先は無人島・・・。騙されたふたりは、この無人島に置き去りにされてしまいます。
 疲れと飢えに絶えながら何日か暮らしますが、幼いふたりは、何も無い無人島でどうする事もできず、もう死を待つ事しかできません。「僕たちは、なんて不幸なんだ!両親を亡くして、人に騙されて、このまま、人知れず死んでいくなんて・・・」嘆き悲しむ弟に、兄が語りかけます。「僕も最初はそう思ったよ。でも、嘆いても仕方ないじゃないか。僕たちは、こうして、親と別れる悲しさ、人に騙される悔しさ、そして、飢えと疲れの苦しさを、他人の何倍も知る事ができた。どうだろう?今度、生まれてくる時は、この経験を生かして、同じ悲しみに泣く人々を救っていこう。他をなぐさめる事で、自分もなぐさめられるんだよ。」兄の言葉を聞いて、弟の心の中にも何かが目覚めました。死を前にして、悲しいという気持ちはなくなり、なにやら晴れ晴れとした気分・・・兄弟は、ともに誓いをたて、ほどなく、静かに息をひきとります。その死顔は、とてもおだやかで、静かなほほえみをたたえていたと言います。
 この兄が観世音菩薩。弟が勢至菩薩です。セイロンからビルマ、タイへ伝わったパーリー語の仏教聖典、いわゆる『南伝大蔵経』のシリーズの「華厳経」に見る悲しくて美しい説話で、この島が補陀落山(白華山・日光山と名づく)である。
 観音の在す住処・浄土は、ポータラカ(Potalaka、補陀落)といい、『華厳経』には、南インドの摩頼矩咤国の補怛落迦であると説かれる。
 『観世音菩薩往生浄土本縁経』(偽経とされていますが)によると、早離・速離の父親は、過去世において長邦(ちような)というバラモン(僧侶の位)で、未来に釈迦として生まれ変り、母親は、阿弥陀如来だとされている。
 この話を信じて行なわれたのが、補陀落渡海(ふだらくとかい)である。JR那智駅の近くに補陀落山寺が在る。ここで補陀落渡海が行なわれた。『熊野年代記』によると、868年から1722年の間に20回実施されたという。この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある。ただし江戸時代には、既に死んでいる人物の遺体(補陀洛山寺の住職の事例が知られている)を渡海船に乗せて水葬で葬るという形に変化したと謂う。

■善光寺と真宗高田派の一光三尊阿弥陀如来
 今回のレポートの主題は、補陀落渡海ではない。「一光三尊仏」である。今年の仏教界の話題として、信濃の善光寺の御開扉が行なわれている。何を御開帳? 勿論ご本尊? ではない、ご本尊は秘仏、古来誰も見た人はいない。実際に存在するかも不明である。御開帳で公開されるのは前立本尊といい、ご本尊を模鋳したものです。一光三尊阿弥陀如来像とはひとつの大型の舟型光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ、三尊が立っているのは、蓮の花びらが散り終えた後に残る蕊が重なった臼型の蓮台です。 これらの全ての特徴を備えたもの仏像を「善光寺式三尊仏」と呼び、全国各地にある善光寺のご本尊として安置されています。
 多くの阿弥陀如来立像の手の印相は、両手とも親指と他の指で輪をつくり、片手を挙げ、もう片手は下げる来迎印(浄土真宗では「摂取不捨印」と呼ばれるそうです)ですが、一光三尊仏中央の阿弥陀如来の右手の印相(手の形)は、手のひらを開いて前面にかざす施無畏印(せむいいん)と呼ばれ、衆生の畏れを取り除くことを意味しています。 左手の印相には大きな特徴があり、手を下げ、第二指、第三指を伸ばし、他の指を曲げた形をしており、刀剣印(とうけんいん)と呼ばれるとても珍しい印相です。
 左右の菩薩の印相も、梵篋印(ぼんきよういん)と呼ばれ、胸の前に左右の手のひらを上下に重ね合わせる珍しい印をしています。中には真珠の薬箱があると、善光寺縁起では伝えられています。前立本尊の大きさは、中尊が約42センチ、菩薩が約30センチであり、ご秘仏本尊も同じ大きさと考えられます。
 善光寺系以外に、一光三尊阿弥陀如来が多く伝わっている宗派が存在します。真宗高田派です。昨年から来年にかけて、17年ぶりに御開扉になっているのは栃木県真岡市(旧下野国高田)に在する真宗高田派本寺専修寺に本尊として安置されている仏像です。 伝えによれば、親鸞聖人が、稲田の草庵から布教のため、下野国高田の地に巡錫されたとき、この地方における豪族、大内一族の懇請によって一宇を創め、 多分伝説だと思うが、親鸞53歳のとき明星天子より「高田の本寺を建立せよ」「ご本尊として信濃の善光寺から一光三尊仏をお迎えせよ」との夢のお告げを得て、信州善光寺より一光三尊の阿弥陀如来を迎えて本尊とし、専修阿弥陀寺と称したという。さらに、親鸞の帰洛に際して、その専修念仏の道場を真仏房が相承し、ついで顕智房へと引きつがれた。専修寺(せんじゆじ)は、以後歴代相承し、第十世真慧上人の代に至って、本山を伊勢国一身田に移ったが、本寺の現在の堂宇は、再度の火災で殆んど烏有に帰したが、ただ、四脚の総門が当時の面影をとどめる。御影堂・如来堂・山門は、いずれも江戸時代に入ってからの再建で、如来堂には、その奥に一光三尊仏が秘仏として安置されて居るのである。秘仏であるが故に御開帳される。本寺より津市一身田、専修寺へ御移動ねがって17年に一度の御開帳である。長野善光寺は、かぞえ年7年(満6年)に一度、奇しくも今年は両御開帳が重なっている。

■真宗高田派「一光三尊仏」の御開扉
 私が高田本山の御開帳が有るのを知ったのは、高田本山へ着いてから。何を寝ぼけたことをと、お叱りを受けるのは当然ですが、そもそも津市へ行ったのは、「専修寺のお宝を見に行きませんか」と御坊組長 三宝寺住職湯川逸紀さんよりお誘いを受けたからです。当然のことですが、お誘いを受けた時、行先目的を聞(聴でない)いているはず。又スケジュール表も貰っている。当日津駅に着いたとき「今日高田本山へ寄るの?」どうしょうもない。
 ここで高田本山参拝の行程を記しておきます。平成27年4月5日(日)AM7:02御坊駅出発、切符は当然『青春18切符』。鶴橋から三重県津市の津駅までは、『時は金なり』仕方なく近鉄特急。津駅よりほど近いその日の目的地の一つ、三重県総合博物館(通称 MieMu)は三重県総合文化センターに隣接する。ここで、企画展「親鸞 高田本山専修寺の至宝」を見学する。組長は大変熱心で、食を忘れてのご見学。私はカレーライスで充電。
 主な展示品は、親鸞聖人御真筆の墨書十字、八字名号本尊、同国宝『西方指南抄(さいほうしなんしよう)』6冊、国宝『三帖和讃』(親鸞・真仏筆)3冊、弟子にあてた聖人の御消息類、・・・高田真慧上人にあてた本願寺蓮如上人のお手紙や覚信尼公の「大谷廟堂敷地寄進状」までも展示。組長によると、毎年の高田本山の報恩講でも宝物館で少しずつ公開されるが、ここまでそろって出されるのことはないとか。一番の見応えは巨大な『涅槃図』、たて5.5メートル、近年修復なって見事な色彩で会場の天井いっぱいからつるされているが、下部はほどけきらず軸木に巻かれている。そして「一光三尊阿弥陀如来像」十数体、とにかくすごい数の至宝が展示されていました。これらの作品を見ながら独り言、『涅槃図』の前では「お釈迦様のお姿が大きすぎるじゃん」ブツブツ「蛇が人より大きいじゃん」ブツブツ「象が人より小さいじゃん」ブツブツ。何処かの放送局のカメラの餌食になっているとも知らずに・・・。
 一光三尊阿弥陀如来像展示説明書を見て、高田派のお寺で所蔵する理由(上記)を知るところとなりました。ただ、現在、それが各寺本堂の「本尊」としておまつりされているかどうかはわかりません。説明板には「高田派○○寺所蔵」となっていただけです。
 その後、高田本山が用意して下さった無料のシャトルバス(高田学苑のスクールバス)にて一身田の専修寺に移り、本寺の秘仏「一光三尊仏」が須弥檀に安置された御影堂に参拝、写真撮影も許可されていましたので、その像容もカメラでパチリ。この日は御開扉慶讃法要中で特別講演が企画されていました。御講師は真宗大谷派僧侶川村妙慶師、易しく尊い阿弥陀さまのお心を涼やかなお声で説いてくださいました。終了後、境内をゆっくり巡ろうと思いましたが、生憎の雨、新調成った四幅の「一光三尊仏絵伝」が掛けられている如来堂だけに参拝して本山を辞しました。


■慌ただしい一日を終えて
 ここでやっと気が付いた。日本一整った寺内町とはいえ、日曜日夕方の門前は閑散、閉店も多い。加えて、空き地も目立ってきている。大きなお饅頭が一身田名物となっている和菓子店「たけや」でお茶のサービスで美味しいお饅頭を頂いたころはもう夕刻4時を過ぎ、閉館時間を大幅に回っていたが、館長さんはご親切にも町の案内所「一身田寺内町の館」を開けて下さり、町の成り立ちを説明して下さった。
 これで、予定していた慌ただしい一日の行程は終わり。帰途は、金欠だが時間は一杯、JR一身田駅より再び「青春キップ」のお世話になる。普通列車で亀山、奈良を経由して天王寺へ。そこで夕食、とにかく腹減った。組長、何も食わずによう頑張るわ。そのワリにはよう肥えておられる。最後にブツブツ、「秘仏御開帳って、これ偶像崇拝では・・・」「宗祖が直拝したという三尊仏、どうして、その後の真宗寺院に広まらなかったのか」「それにしても、なぜあんなに沢山の宗祖御真蹟が専修寺に・・・」私にはどうもわからない。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

( 一部資料はインターネット、「親鸞 高田本山専修寺の至宝」展図録より拝借 )

専修寺で撮影中の筆者
  細谷廣延氏

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