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『花まつり・湯川忌・御坊幼稚園創立100周年の記念法要』


■100年の歴史の中で
 御坊幼稚園にまつわる、微笑ましい出来事をいくつかご紹介いたします。
 まずは、同園に通っていたある小学生のお話です。
 ある時、近所のおばさんにお饅頭をいただいたと言って帰ってきました。帰るなりすぐに食べ始めるかと思って見ていると、つかつかと仏間に入り、お仏壇の前に座ったかと思うと、今もらってきたお饅頭をお供えし、手を合わせて合掌しだしました。何してるのと聞くと、「まずは仏さまにお供えするんだよ」と言って、嬉しそうにお饅頭を頬張りはじめました。以前、通っていた御坊幼稚園では、食事やおやつを頂くときには仏さまに感謝する躾がなされていたので、小学生になってもその習慣が身についていたそうです。
 また、平成25年には女優の富司純子さんがプライベートな旅行を利用して、20年ぶりに御坊幼稚園を訪れた出来事もありました。富司さんは両親が疎開してきた御坊で生まれ、5歳で大阪に引っ越しするまで御坊で生活をされ、御坊幼稚園にも通われていたそうです。突然の出来事でしたが、「私もここ(御坊幼稚園)の出身なのよ。私が昔住んでいたのは御坊小学校の前の辺り。西川ではシジミがとれたのを覚えています。御坊へ帰ってくるのは、娘(女優・寺島しのぶさん)が小学校のときに一緒に来て以来です。きょうはこれから煙樹ケ浜にいってきます。」と同園の教諭にも気軽に話をされ、記念写真にも応じてられました。

■3つの大きな危機を乗り越えて
 100年の歴史の中には、大きな危機に遭遇したこともありました。
 初めの危機は、昭和28年に遭遇した水害です。日高川の水が和佐ではん濫した後、御坊平野にはん濫しました。特に平野部の被災がひどく、浸水しない家屋はなく、流失しない耕地は上流より運ばれてきた泥土に埋没しました。被害は、死者26名行方不明100名、重軽傷約3,000名。推定床上浸水4,000戸、内流失365戸といわれています。その中、御坊幼稚園も例外ではなく園舎が大被害を受けました。
 二つ目の危機は、昭和33年に園舎が放火され全焼となったことです。書類、教具、部品などの一部が消失しました。現在、園舎が建っている場所は、放火後、再建された場所となります。
 そして三つ目の危機は、まさに今訪れている過疎化、少子化の波であります。
 御坊の地も過疎化による人口減少の波にさらされており、昭和60年には3万人生活していた人口も平成2年に3万人を割り込み、今年平成27年2月には2万5千人を割り込む事態となっています。御坊幼稚園としても昭和60年には190名の定員に対して、定員以上の募集がありましたが、その後、過疎化、少子化の波にさらされて、数年前には定員の4分の1にまで縮小し、このまま進めば廃園となるところまで行きました。今年はなんとか新たな園児が23名入園し、合計68名と少し増加となり一息つくことができましたが、少子化の波は加速している状況に変わりはないです。

■御坊幼稚園創立100周年の記念法要の様子
 5月10日(日)、近隣の方々を含め様々な方のお力により、五月晴れの快晴の下、花まつり・降誕会・湯川忌に合わせ、御坊幼稚園創立100周年の記念法要が日高別院にて執り行われました。同園の園児を含めた88名のお稚児さんが参加された賑やかな法要となりました。午後1時の開式でしたが、開式前には既にお堂はお稚児さんとその父兄で満堂になっていました。
 園児のお勤めとして「帰命無量寿如来」と歌「こどもの花まつり」「親鸞さまの誕生日」で始まり、その後、僧侶も含めてみんなで「らいはいのうた」をお勤めしました。途中、代表の園児達がお釈迦様の像に甘茶をそそいで合掌しました。
 お勤めの後は、日高別院周辺の商店街を約40分かけて稚児行列のパレードです。仏旗を先頭に、白象と白象を引く子ども達、雅楽演奏団、お稚児さんと父兄、そして最後に僧侶が続きます。沿道にはパレードをみる人だかりができており、お稚児さんに向かってにこやかに手を振ると、お稚児さんも一生懸命に手を振って答えていました。暑かったせいか、中には、ご機嫌ななめで、泣きじゃくっていたお稚児さんもいました。
 パレードが終わり日高別院に戻ってくると、正門の前ではプトリとプトラが出迎えてくれていました。それを見たお稚児さんは、大はしゃぎです。最後に、みんなで本堂の阿弥陀さまに向かい合掌礼拝して閉式です。その後、その場に残って、お釈迦様の像に甘茶をそそいだり、プトリとプトラに抱き着いたり、記念写真を撮ったりしてすごしました。まさに御坊幼稚園創立100周年を記念する素晴らしい法要となりました。

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