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「人の命は海よりも深く 地球よりも重たし」

 小松雅也氏が組門信徒研で「特攻隊で散った兄」を語る。


■戦後70年節目の年に
 ここ数年来、組が主催する基幹運動及び実践運動推進門信徒研修協議会では「開かれた寺づくり」をテーマに学んできました。しかし、昨年は戦後70年、あの大戦を振り返る大きな節目の年でした。例年に増して全国で戦争を憎み、平和を希求するイベントが数多く開かれました。
 また、秋には立憲主義を破壊し、日本を「戦争する国」にするのではと強い懸念が広がった「安保法制」が国会で可決される事態となりました。この法案については、現在も国論を二分する議論や示威運動が続いています。
 宗門でも昨年7月3日、広島平和公園で「平和を願う集い」が開かれ、専如御門主の御親教がありました。その中で御門主様は「第2次世界大戦が終わって70年が経とうとしています。しかし人類が経験したこともなかった世界規模での争いが起こったあと、70年という歳月が、争いがもたらした深い悲しみや痛みを和らげることができたでしょうか。そして、私たちはそこから平和への願いと、学びをどれだけ深めることができたでしょうか。
 戦争の当時を生きられた方々が少なくなってゆくなかで、戦争がもたらした痛みの記憶は遠いものとなり、風化し忘れられつつあります。また先の大戦において、本願寺教団が戦争の遂行に協力したことも、決して忘れてはなりません。こうした記憶の風化に対し、平和を語り継ぐことが、戦後70年の今を生きる私たちに課せられた最大の責務です。よりよい未来を創造するためには、仏智に教え導かれ、争いの現実に向きあうことが基本でありましょう。 (中略) 戦後70年という歳月を、戦争の悲しみや痛みを忘れるためのものにしてはなりません。そして戦後70年というこの年が、異なる価値観を互いに認め合い、共存できる社会の実現のためにあることを、世界中の人びとが再認識する機会となるよう、願ってやみません。」と宗門人として「戦後70年」をどう受けとめるのかを明確にして下さいました。


■「戦争と平和」の学びは実践運動の要
 今、宗門をあげて取り組んでいる「実践運動」(御同朋の社会をめざす運動)とは、「いのちの尊さにめざめる同朋一人ひとりが自覚を深め、浄土真宗のみ教えを社会に広め実践していく活動」とされています。和歌山教区においてはその具体的な取り組みとして毎年、7月9日に鷺森別院において「平和を希う念仏者の集い」を開催しています。この日は昭和20年に和歌山大空襲があった日として記憶されており、会を重ねて昨年の「集い」はすでに22回と非戦平和を誓う法要として定着しています。
 御坊組執行部は、「戦後70年」を迎えた今年度の門徒研修会のテーマを「戦争の事実に学ぶ」としました。
 私は数年前、「九条の会美浜」が主催する「平和のための戦争展」に参加しました。その会場の一角で開かれた特別講演に立って下さったのが小松雅也氏でした。氏は当時、町内にある「小松保険事務所」の会長としてご活躍の身、とつとつとした語り口の中に実兄中西伸一さんが犠牲となった特攻の悲劇が浮き彫りにされてゆきました。
 伸一さんは小松雅也さんの長兄、当時は三尾国民学校校長をなさっていた父(中西介造さん)のあとを慕って教師をめざし、和歌山師範を卒業して母校の和田小学校(戦時中は国民学校と呼称された)の教壇に立ったばかりの青年教師でした。
 戦局が厳しくなった昭和18年秋、「御国」を思う純粋な心から伸一さんは入隊を決意「戦争が激しくなってきた。教師をしているときじゃない飛行兵にならにゃ」と父母を説得。父は「しっかり勤めよ」、母も「手柄をたてよ」と励ましたという。入隊後、思わぬ故郷・和田国民学校への飛来の理由。沖縄の海に「見事に」散った中西少尉の報告。長男の死を「ようやった」と讃えた父母、心打つ教え子の弔辞、33回忌での墓石にしがみついた母の号泣と母から出た思わぬ言葉「今までは日本の国にあげた子供やったんや。天皇陛下にあげた子供やったんや。でも、今日の33回忌でやっとわしの子供になったんや」の重み、結ばれることがなかった「彼女」の墓参と知覧での軍服との別れ、明野飛行場の元整備士の弔電など私にとっては衝撃的な内容で、町社会福祉協議会3階の会場を埋めた多くの方々が涙していたことを覚えています。

■知覧で出会った中西伸一少尉
 昨秋、私は鹿児島を旅しました。江戸時代の薩摩藩による念仏弾圧を物語る「隠れ念仏洞」と戦争末期の悲劇「特攻」の真実を知るため知覧の特攻基地を訪ねるためです。初めての「知覧特攻平和会館」でしたが、今会館はIT化が進み、館内を埋め尽くした遺品・遺影の展示場所はボタン一つで検索できるようになっています。小松氏が提供された中西少尉の遺影と遺品も容易く見つけることが出来ました。飛行服を着た凛々しい姿、別れを告げる達筆の手紙の他、お母さん手作りの小物入れ、日記帳など基地での日常を偲ばせる遺品が大切に展示されていました。
 あどけなさが残る若い隊員の遺影や「お国のために身を捧げることができるこの時代に生を受けたことに感謝する」というような遺言に心が痛みます。

■小松雅也氏を御講師に門信徒研修会
 このような経過があり、戦後70年を期して行う組の門信徒研修会の御講師は小松雅也氏にお願いすることにいたしました。氏は現在85歳、昨年も請われて小中高校の子どもたちや市民グループなど十数カ所でご講演されました。どこでも「人の幸せ、青春を引き裂く戦争の恐ろしさ」を熱く語って下さっています。また、お手次ぎの済広寺(浄土宗)様の盆会でもお話しされました。
 2月20日の研修会においては、お話しの順序がガイドされるレジメをご用意下さり、加えて、昨年7月29日付け産経新聞の第1面と第3面に掲載された氏へのインタビュー記事のコピーも配布されました。これらのお陰で氏の思いがよく伝わってきました。
 このHP上に氏の1時間半に及ぶ中身濃い講演は再現はできませんが、幸い今回の講演内容は先日発刊された日高新報社の本で読むことができます。以下に紹介します。

■「その日がくる前に〜それぞれの戦争を訪ねて〜」
 日高新報社はここ数年、日高・御坊に住む高齢者からさまざまな戦争体験の聞き取りを行い記事にしてきました。その内容はいずれも貴重な体験記録ですが、その語り部の多くはすでに80代・90代、すでに故人になった方々も多くおられます。今聞き、書きとどめておかなければ後世には伝わりません。昨年末、新報社は「戦後70年プロジェクト」としてこれまでの記事に新たな取材分を加え、566ページに及ぶ大書「 その日がくる前に」を出版されました。まさに時宜を得た出版と言えましょう。
 そしてこの本のP36〜P48に「国のために戦わねば」と題する小松雅也さんへの取材記事が掲載されています。この日の講演内容の大半はここに書き込まれており、貴重な写真資料も公開されています。是非お買い求め(1800円)、お読み下さいますようお願いします。

■非戦の誓いを新たに
 私は、昭和25年生まれ、和田小学校入学は32年、もし、戦争がなかったり、中西伸一さんがたとえ従軍していたとしても無事に復員されておられれば、きっと元の和田小学校に戻ってきてくれているはず。中西伸一先生は34歳、ひょっとしたら私の担任になって下さっていたかもしれません。きっと熱血漢で思いやりのある素晴らしい教育者になっておられたのではないかと想像します。
 20日の参加者は74人でしたが、この中には、和歌山、有田からの門徒推進員も3名、聴講して下さいました。小松氏は講演の最後を「人の命は海より深く、地球より重たし」と締めくくられました。戦後70年の節目にあたって非戦の誓いを新たにする意義深い講演会でした。
 蛇足ですが、小松雅也氏は写真撮影を趣味とされています。古くから「南紀カメラクラブ」や「花を写す会」で活躍を続け、それぞれの展示会の他、美浜町中央公民館で個展を開催されたこともあります。氏は「蓮は平和の象徴なり」という大賀一郎博士の言葉を大切にされ、私の寺の本堂にも2枚の清楚な蓮の写真を飾って下さっていました。それに加え昨夏には「平和70周年〜共に咲くよろこび〜(舞妃蓮)撮影 平成27年8月17日 小松雅也」との銘が入った大パネルを寄進して下さいました。また県下では282年ぶりと言われた2012年5月21日にあった皆既日食の連続写真も見事な天体ショーに仕上げて本堂において下さっています。和田不毛に飛来した珍鳥の写真撮影に成功され地方紙に紹介されることも度々です。御注目下さい。
南無阿弥陀仏



御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)

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