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映画「山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」を観て

 7月〜9月を「日中不再戦月間」とよび、さまざまな非戦平和運動が取り組まれていることを知ったのは30年ほど前、誘われて入った日中友好協会御坊支部(現日高支部)の集りでした。7月7日は日中戦争の発端、盧溝橋事件(1937年)が起こった日、戦争終結の8月15日(1945年)、9月18日は1931年、柳条湖事件(満州事変)(1931)が起こった日 、これらの日々を節目に夏は戦争と平和を考える催しが連続します。
 一昨年、私も参加していた東京での協会の第63回全国大会に山田火砂子さんという女性映画監督が戦後70年を記念して満蒙開拓団の悲劇をテーマとした表題の映画を制作中であり、まもなく完成する、是非とも多くの方々に観てもらいたいと熱心に呼びかけられました。それから気にはなっていましたが、独立プロの作品であり、大きな映画館で上映されることはありませんので鑑賞の機会を見つけられませんでした。

■東本願寺で上映会
 昨年末、たまたま開いた東本願寺のHPに12月16日、「人権問題学習会」としてこの映画の上映会と山田火砂子監督の講演会がセットされるということが報じられていました。主催は大谷派宗議会・参議会ということでしたが、案内文に「どなたでも、入場無料でご参加いただけます」とありましたので、早速申し込み、会場の東本願寺にある真宗本廟視聴覚ホールへ行ってきました。
 前段の講演では山田火砂子監督がこの作品に込めた思いと制作の裏話を、縦横に語ってくれました。80歳を越えられた身ですがお話しからはお名前の通り火炎のような戦争を憎み、平和を希求する熱い意志が伝わってきました。
 次に映画上映となるわけですが、この映画は、長野県出身の児童文学作家和田登氏の著書「望郷の鐘 中国残留孤児の父・山本慈昭」を原作としたもので、戦争最末期に開拓団の一員として一家で渡満、妻子と生き別れとなり、終戦後、中国に残された数多くの日本人孤児と肉親の再会を実現させ「中国残留孤児の父」と呼ばれた故・山本慈昭さんの生涯を描いた作品です。
 私にはこの作品の内容をまとめる力はありません。この映画のWebサイトに「あらすじ」がありますので以下に転載させてもらいます。

[物語のあらすじ]
 日本の敗色が鮮明になった、 東京大空襲。それがあってもなお、 満蒙開拓団として日本を発つ一団があった??

 昭和二十年五月一日、敗戦間近に三つの村の村長に説得され、一年だけと言う約束で満州へ渡る。
 山本慈昭は長野県下伊那郡会地村(現 阿智村)にある長岳寺の住職であり、国民学校(現在の小学校)の先生でもあった。昭和二十年五月一日、敗戦間近に三つの村の村長に説得され、一年だけと言う約束で満州へ渡る。
八月九日に、日ソ不可侵条約を破ってソ連軍が一方的に攻めてくる。八月十五日の敗戦もわからずに逃げ廻るが、女子供を抱えてシベリア国境近くの北哈?の町より逃げても、なかなか先に進まない。列車もなく、橋は関東軍が逃げる時に壊して行き、平原を歩くとロシア兵に捕まるので山の中を歩き、食料もなく死の旅であった。


桜の咲いている自然の美しい日本に見とれ…
 或る日、慈昭達一行はロシア兵に捕まり勃利の街の収容所に入れられ、16歳以上の男性はシベリアに連れて行かれる。極寒の中、 労働をさせられた慈昭は、奇跡的に一年半後に日本に帰国する事が出来た。

桜の咲いている自然の美しい日本に見とれ…
 ようやく家に帰り着くと、阿智郷はわずかの帰還者はあったものの全滅との報であった。 妻と子供達は亡くなったと知らされる。世の中が民主主義となり、大きく変わりつつある頃慈昭は開拓団の仲間達の辿った運命を『阿智村・死没者名簿』としてまとめる。 同じ頃、天台宗・半田大僧正に会い長野県日中友好協会会長を引き受ける事を聞き、平岡ダム建設のため強制連行された中国人の事を知り、 遺骨を本国へ返す運動に力を注ぐ。

中国を訪れてから一年あまりがすぎた頃、慈昭のもとに一通の手紙が届く。
 手紙は日本人孤児からの物で、戦争で離れ離れになってしまった子供達が、両親を恋しく思い、再会したいという気持ちが詳しく書いてあった。 読んでいくと、目頭から熱いものがこみ上げる。慈昭は、満州で沢山の日本人が優しい中国人によって育てられている事を知り、遺骨収集よりも生きている孤児達の日本帰国救済運動に大きく踏み込んでいく。慈昭は遂には国を動かし、 次々と孤児が発見され、訪中の末その帰国や里帰りが実現していった。そして娘の冬子とようやく再会したのは、慈昭が八十三歳の秋であった。冬子は慈昭と二人きりになった時、あの満州のことを語るのであった。

■「満蒙開拓団」の惨劇
 「満蒙開拓団」とは1931年(昭和6年)の満州事変以降、1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦までの期間に大日本帝国政府の国策によって推進された、中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人移民の総称である。932年(昭和7年)から大陸政策の要として、また昭和恐慌下の農村更生策の一つとして遂行され、14年間で27万人が移住したという。開拓団は農業従事者を中心に、村落や集落などの地縁関係に重点をおいた移民団(開拓団)が日本の各地で結成された。その募集ポスターには、『王道楽土』や『五族協和』などをスローガンが踊ります。
 終戦前後からの開拓団の引き揚げは悲惨であった。青少年義勇軍を含む満州開拓移民の総数は27万人とも、32万人ともされる。ソ連の参戦でほとんどが国境地帯に取り残され、日本に帰国できたのは11万人あまりだった。各地の開拓移民団は引き揚げの途中で多くの死者、行方不明者、収容所での感染症による病死者を出し、無事に帰国できた開拓団はなかった。また、この中で、多くの「中国残留孤児」も生まれた。
 また、国境を越えてきたソ連兵に捕らえられシベリアへ送られた男子入植者は、シベリア抑留者となり帰国は更に困難を極めた。また 帰国後も敗戦後の日本の混乱により、開拓移民団を中心とした大陸から帰国した「引揚者」は帰国後の居住のあてもなく、戦後も苦難の生活を余儀なくされた。政府は、彼らに移住用の土地を日本の各地に割り当てることにしたが、非耕作地が多く開墾の必要な土地であった。いずれの土地も荒れ、耕作には適さず、多くの人々は過酷な状況にさらされた。敗戦によって日本全体が困窮しており、政府も満足な支援をすることが出来なかった。
 全国最多の開拓民約3万3000人を中国東北部へ送り出し、約1万5000人が亡くなった長野県でも、最も悲惨な「引き上げ」となったのが南信の阿智郷開拓団であった。団員全215人のうち、帰国できた者は13人であったという。山本慈紹の教え子たちの生存者は、当初の51人のうち6人にすぎなかった。
 この映画は、慈紹が関わる阿智郷開拓団入植から引き上げ、そして残留孤児捜しを追っています。

■戦争の事実が見える作品
 山本慈昭役は内藤剛士さん、その妻千尋役には渡辺梓さん、あの大女優常盤貴子さんも教師役として出演しているのには驚きました。また最後にはヒッチコックばりに山田監督もチラッと出てきます。ボランテイアで出演している南信の子どもたちも一生懸命の演技です。
 第一印象、2時間があっという間、すばらしい作品です。この映画の特徴は「戦争」をテーマにしてますが「お涙頂戴」的な過剰な演出や、残虐場面などはなく、子供にも安心して見せられます。反戦を声高に叫ぶものではありませんが、大切なところは押さえています。山田監督は制作意図として、HPでこう述べています。「国家の政策に純粋に協力しただけと言っても、この事実は一人一人が責任を問われる事になる。国家に尽くした日本国民は 加害者であって被害者であったのです??」「満州はユートピアだと言われ大勢の民間人が中国大陸に向かいました。騙されるという事は、恐ろしい事です。平和ボケと言われても、平和を願ってこの作品を作ります。」と
 私はここまで「満蒙開拓団」については殆ど無知でした。また、山本慈紹師のお名前さえも存知あげませんでした。この映画を観てあの15年におよぶアジア太平洋戦争がどれほどの人々(日本人も諸外国の人々も)を苦しめたのかを改めて気づかされました。また、山本慈紹師が示して下さったどこまでも「いのちと平和」を擁護する僧侶としての生き方から多くのことを学ばせていただきました。

■満州からの引き揚げ者の生の声
 一昨年、御門徒さん方の法事の席で、7歳の時、満州から引き上げて来られた印南町出身の橋本恵美子さんと知り合い、そのご苦労を聞かせていただく機会がありました。そのことを日高新報社の玉井圭記者に話したところ、早速取材して下さり、出版直前であった日高新報戦後70年プロジェクト「その日がくる前に」に「連れ帰ってくれた母に感謝」と題する記事にまとめ掲載して下さいました。貴重な体験談が活字となりました。橋本さんのお話しが映画の場面といくつも重なります。
 いつか、私たちの日中友好協会日高支部でもこの上映会ができればいいなあと話し合っているところです。ご期待下さい。

■安斉育郎先生が今年の「平和を希う念仏者の集い」に
 和歌山大空襲があった、7月9日に因む、実践運動教区委員会が主催する「平和を希う念仏者の集い」に今年は立命館大学国際平和ミュージアムの名誉館長安斉育郎先生が出講して下さいます。先生は放射線物理学を専門とされる名高い科学者、私は昨年9月和歌山市の県民文化会館であった「全国高齢者大会」の全体会で行われた記念講演を聞かせていただく機会を持ちました。その豊富な知識と平和への情熱に圧倒されました。この度の講演も大いに楽しみです。今年の法要は鷺森別院でなく和歌山市の市民会館が会所となります。お寺に案内チラシが届いています。是非是非ご参加を!


御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


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