(過去の「雑色雑光」はこちらからどうぞ)

「日高に残る戦争遺産(その2)」 戦時代用仏具のこと


■いのちと戦争を考える「千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要」
 「千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要」は、宗門として、悲惨な戦争を再び繰り返してはならないという平和への決意を確認するため、毎年9月18日に、東京・国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑において修行してきました。今年で36回、いのちの尊さ、非戦・平和の大切さを次世代に語り伝えてゆくための大切な法要として定着しています。
 ちなみに、この9月18日は、15年にもおよぶ「アジア・太平洋戦争」の発端となった満州事変が勃発(柳条湖事件)した日です。1931(昭和6)年のことで、もう85年前になりますが、あの戦争を反省する上で大切な日がこの法要日に選ばれています。
 秋彼岸会の直前で、その準備のため、私はまだこの法要には一度も参拝する機会を持ち得ていませんが、季節をはずして千鳥ヶ淵戦没者墓園にはこれまで三度ばかりお参りしたことがあります。この春、四月にも訪ねました。広い敷地を前に、外地で戦に倒れ、身元が確定できない兵士の御遺骨が収められている納骨所が中央にあり無宗教の参拝所が整えられています。この前で合掌すると、戦争犠牲者への追悼の思いとともに、非戦の誓いを新たにします。
 

■戦時代用仏具とは
 私の自坊三宝寺に焦げ茶色(殆ど黒色に見える)の陶器製の本堂前卓用の花瓶一対があり、常の荘厳に使用しています。(右の写真) 祖父母から「戦時中、金属製の仏具はみな供出させられた。これはその代わりくれたもの」と聞いていました。私が子どのころには黒い仏飯器も1対あったような気がしますが、今はありません。燭台や香炉の代用品があったという記憶はありません。


■戦時中の金属供出
 昭和16年8月30日には国家総動員法に基づく金属類回収令を公布、同年9月1日施行され、官公署・職場・家庭の区別なく根こそぎ回収へと進みました。
 戦局の悪化とともに、金属回収が強行され、全ての役所と国民学校・中学校の暖房器機から二宮尊徳像まで回収対象となり、家庭の鍋釜・箪笥の取手・蚊張 の釣手・店の看板なども回収されました。
 「まだ出し足らぬ家庭鉱」のスローガンのもと回収が終戦まで続けられ、火箸・花器・仏具・窓格子・金銀杯・ 時計側鎖・煙・置物・指輪・ネクタイピン・バックルに至るまで根こそぎ回収されたといいます。
 宗教施設も例外では無く、鐘や仏具など「銅製品の宝庫」だった寺院は直接の信仰対象となる仏体や神鏡以外の銅製品の回収が主に42年以降続きました(国宝など貴重な文化財は除外)。
 寺院の梵鐘も数多く供出されましたが、そのことについては別の機会に書きます。
 

■組内寺院にも代用仏具が・・・
 先日、南塩屋光専寺の御住職柏木秀憲氏に代用仏具のことをお聞きしたら、「私方には燭台、香炉、仏飯器がありますよ、花瓶も確かにあったと思いますが、しまいこんでしまっています。仏飯器は今も普段には使用していますよ。」とのこと、早速見せていただきましたが、写真のように全くキズもなく大切に扱われています。氏から「確か、野口の安楽寺さんでも普段使われているように思います。」と教えてくださいました。早速、お訪ねしますと、陶器製の黒光する花瓶、燭台、仏飯器が現にお荘厳に使用されていました。報恩講時は殆どが宣徳製や真鍮製のものになっていますが、蓮師前では花瓶、燭台が現役でした。(写真の女性は伊藤明子住職)
 ネットで調べてみますと、戦時中の仏具回収は仏教界の連合組織「大日本仏教連合会」と代用品工業の振興を図る社団法人「代用品協会」が主体となり、寺の銅製仏具を全て出すことを前提に、陶磁器、ガラス、セメントなどの代用品を支給されたようです。戦時下の「統制陶器」で、統制下の流通状況などから市販品ではなく、銅製仏具との交換品と思われます。
 私が知る限り、代用仏具はその色、形、大きさは宗派、寺院によらずみな同じように思えます。どれも簡素で、宣徳製の燭台なら必ずついている阿吽の鶴などの装飾はなく、みなつるっとしています。しかし、こうした陶器は長い年月の中で破損や廃棄されることが多く「現役」はあまり多くはないと思われます。
 戦争はあらゆる日常を破壊します。仏様を荘厳する仏具を鋳つぶし人を殺める兵器に変えるなど、戦争は「兵戈無用」を教える仏教とは全く相容れません。今、各寺に残されている戦時代用仏具は戦争を後世に語り継ぐ文化財、戦争の愚かさに気づき、非戦を誓う仏具として大切に保持したいものです。私どもの寺では、今後、終戦記念日が重なる盆会のお荘厳にこの花瓶を使用していきたいと思っています。

 


御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


▲ページトップに戻る