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親鸞聖人二十四輩めぐり(その1) 明法房開基「法専寺」を訪ねて


 親鸞聖人二十四輩とは、親鸞聖人の有力な二十四人の弟子ということです。この二十四人の制定にはいくつかの説があるようです。今、その弟子を開基とする寺院は、元はそれぞれが一ヶ寺であったことでしょうが、子孫の分流、戦火による退転、再建などにより二十四輩寺院が諸国に分散し、現在では二十四輩を開基とする寺院が百ヶ寺以上あります。現在のそれらが属する宗派は、本願寺派、大谷派、高田派の他、単立となっているところもあります。
 また、関東には稲田の草庵跡「西念寺」や大部の平太郎さんが開基となった「真仏寺」など、この二十四輩寺院以外にも直弟開基の重要な寺院や御旧跡は沢山あります。
私は、長年、時間とお金ができたらこれらに参拝したいと思い続けおりましたが、何せその所在地は茨城県が大半、どんな交通機関を利用しても紀州からは遠すぎます。
 学校を定年退職して、年金暮らしの身となったから、お金はともかく時間はいっぱいできた。そうだ、関空からピーチで成田まで飛び、そこからレンタカーを駆れば日帰りでも何ケ寺かには行ける、それを繰り返せば全寺制覇も、と気付き、まずこの1月と6月に実行しました。

 1月は1泊しましたので、少しゆっくり参拝。6月は朝5時前に自坊を出て、帰宅したのは日付が変わる寸前という日帰り。都合3日の小旅行で訪ねたのは、稲田の西念寺と玉日廟、板敷山の大覚寺、高田本寺専修寺(栃木県真岡市)、河和田の唯円(歎異抄著者)開基の報仏寺と道場池、聖人が一切経を読むために通われたという鹿島神宮、弁円(明法坊)開基の上宮寺と法専寺、故事「親鸞枕石」で有名な枕石寺、真仏寺と「田植え歌」の旧跡そして大山の草庵跡です。御旧跡以外では。足利学校、弘道館、偕楽園、千葉の笠森観音にも立ち寄りました。
 レンタカーのナビ頼みのバタバタ旅行でしたので、スムーズにたどり着けないところも多々ありましたが、宗祖大遠忌を終えて間もないためか、どこも堂宇、境内はきれいに整備されています。これら名の知れた寺院には大きな駐車場があり、バスでの団体参拝の便宜がはかられています。

 この中で最も印象深いのは常陸大宮市にある法専寺さんです。このお寺の参拝を決めたのは旅行の前々日、以前東本願寺のブックセンター頂いていた地図「しんらんさまめぐり関東編1・2・3」[写真@]を見ていると有名な枕石寺に近く、聖人の関東教化中、最も知られた逸話「弁円済度」の「弁円」ゆかりの古刹であることが分かったからです。
 この「弁円済度(べんねんさいど)」とは、親鸞聖人が広められた専修念仏に対して、快く思わない山伏の弁円についての逸話です。稲田の草庵に近い筑波山地は、当時修験道の修行が盛んなところでした。
 山伏弁円は、聖人がいつも行き来する板敷山の山中で、聖人に危害を加えようと待ち伏せすることにしました。ところが、いつもは通りかかるはずの親鸞聖人は、何度待ち伏せしても現れなかったのでした。  そこで、しびれをきらした弁円は、聖人の草庵に乗り込んでいくことにしました。
 弓矢を手にして草庵に乗り込んできた弁円に対して、親鸞聖人は「左右なく出であひたまひけり」と、何のためらいもなく、わざわざ訪れてきた客人として出迎えられたのでした。
 このような広い心の親鸞聖人に接した弁円は、危害を加えようとした気持が直ぐさま消えてしまい、それからしばらくして、今まで心に抱いていた思いを聖人に打ち明けたところ、聖人は驚く様子もなかったということです。
 そこで弁円は、持っていた弓矢を折り、刀や杖を捨て、山伏特有の額に付ける頭巾を取り、柿渋染めの山伏の着衣を脱ぎすてたとあります。これ以後、弁円は専修念仏に帰依して、聖人から明法房(みようほうぼう)の僧名を頂いたのです。[写真A]

 この明法房が開基となった寺の一つが、法専寺です。常陸大宮市の観光協会のホームページに「観光ガイド うちの自慢」というコーナーがあり、そこにご住職が現在の法専寺を次のように紹介されています。

 「お茶を飲みながら人生を語る寺」
 正式には楢原山法徳院法専寺と号し、開基八百年を経て現在も全国からの参拝が絶えない
 名刹となっています。併せて里人の生活の寺としても代々その伝統を今に守り続けていま
 す。位置的には八溝山地の中域にあたり、境内を含めた近辺一帯は「奥久慈県立自然公園」
 に指定されています。自然の有難みを感じる生き方を大切にし、誠実で明るい寺でありた
 いと願っています

  

 私と坊守がここにお参りしたのは、6月22日のお昼すぎ、市街地を離れた農村の一角、小高い山の中腹に山門が見えます。下の広い駐車場に車を停め階段を登ると、境内に本堂、鐘楼、宝物館、庫裡が配置されています。[写真BC]本堂は山を背に銅板葺きでこぢんまりと建てられています。真っ先に気付かされるのはその清掃が行き届いていること。裏山の急な斜面もよく手入れされています。同じ山寺の我が三宝寺とは大違い。全国から来られる参拝者を気持ちよくお迎え下さる心遣いがよく分かります。
 本堂前でお参りしていると、ご住職が現れ、本堂に招き入れて下さいました。坊守さままでお出まし下さり、本堂に敷設されている広間でお茶の接待まで受けることとなりました。まったく恐縮の至り。[写真D]
 そこでご住職の本多隆海師より法専寺さまの縁起をじっくり伺いました。法専寺さまは現在、真宗大谷派に属され、開基まもなく八百年になろうかという古刹、ご住職は当山第29世となるとのこと。本堂の形態は親鸞聖人がいらした当時の道場形式のままであった。外陣より内陣に向かって本間右脇壇上に親鸞聖人の御木像が、左脇壇上には開基明法房の御木像が安置されています。
 法専寺さまの本堂は他の由緒寺院に比べると、大変こぢんまりとしており、本堂内の天井も低い。ご住職の御説明によると、かつては大きな本堂であったが、災害にあい本堂が大きく傷んだため、それを解体、用材を少し切り詰めて再利用して建立されたとのこと。
 本堂に入り、すぐ気づくのは外陣正面欄間の上に掲げられた「御絵伝」です。勿論「弁円済度」の場面です。これを何枚もの絵にして、この劇的な回心の逸話が理解できるように配置されています。これはなんと現住職の御祖父様が描かれたものだそうです。[写真EF]このお方は大変利巧な方のようで、今宝物館に展示されている竹を駆使して製作された御仏壇も見事です。
   
 この地域では廃仏毀釈の影響が未だに残っており、葬儀を「神道」で執行して、後の年回法要は寺に依頼されるとのこと。地域とのつながりを大切にするため、門前の花畑に日本在来種の菜の花を栽培して観賞したのち、実からは昔ながらの手法で油を絞っているとのこと。また菜の花の後にはソバを植え、新ソバ収穫時には年一回だけの門前蕎麦屋「俄庵」を開店して地域の皆と楽しんでいるとのことです。
 ご住職からは、東日本大震災の爪痕が残る「願入寺(聖人の孫、如信上人開基)」や「枕石寺」の現状もお聞かせいただいた。帰り際、宝物館も案内していただき、聖人の真筆と伝えられる断簡や弁円が所持していたという短刀などの宝物を拝観させていただいた。[写真G]
 また、近くに明法房の墓とされる「明法房の塚」があることを教えていただき、そこにも無事参拝を果たすことができました。墓は深い木立の中にあり、苔むす参道を含め静謐な空間となっています。[写真H]今、周辺は公園としてよく整備されお瀟洒な四阿(あずまや)まで建てられていました。[写真I]ただ、寺からの遊歩道を少し歩いてみましたが、イノシシの足跡がくっきり、はっきり、いっぱいあります。クワバラクワバラ。駐車場の隣にはご住職が植栽・管理されている梅林がありますが、その周りの白いフェンスは獣害を防ぐためとか。山里は何処も大変です。
    

 親鸞聖人は、建長四年(1252)80歳の時のお手紙で明法房の往生を語られています。「明教坊が上京されたことは誠に有り難いことと思われます。明法の御坊の浄土にお生まれになったことをまのあたりにお聞きしたことも、嬉しいことです。」と、直弟子の往生を喜ぶ内容になっています。
 聖人と弁円がは稲田の草庵で出会ったのは聖人49才、弁円42才。明法房の歌に「山も山 道も昔にかはらねど かはりはてたる我心かな」とあるは、親鸞を殺そうと待ち伏せた板敷山は以前となにも変わらないけれど、我が心は回心懺悔して、いまに念仏を称える身となった、というのでしょう。親鸞聖人にとっても思い出深い人物でしたが、建長3年(1251)、72歳で往生を遂げました。

 この旅行で法専寺さんの前に訪ねた那珂市の上宮寺(同じく明法房を開基とする)の鬼瓦のモニュメントにこうありました。[写真JK]

   「弁円の真似する人は多けれど 明法房となる人ぞなし」

    

 以下は上宮寺さんのホームページにある御住職の解説です。

 「人をねたんだり、憎んだり、殺そうと思う人は鎌倉時代の山伏弁円のまねであり、現在もそうした心で生きている人はたくさんいると思います。しかし、そういうおのれの正体に気づき、阿弥陀如来の尊前にぬかずき、お念仏をとなえる明法房のような念仏者になる人は少ないという歌です。」

 厳しいお言葉ですが、私のことをみごとに言い当てています。
 この度の、法専寺さまご住職、坊守様との出会いは殊の外有り難い御縁となりました。ご住職が観光協会HPで語られる「自然の有難みを感じる生き方を大切にし、誠実で明るい寺でありたいと願っています」が本当に実践されておられることに感銘を受けました。私と坊守にとっては何よりの研修の場となりました。
 因みに、数年前、本願寺勧学梯実圓和上がご夫妻で参拝に来られたとのこと、尊前での読経の声に「ただ人」でないと感じられたとご住職が語っておられました。
 関東には明法房(弁円)との深い関わりを持つ寺院は他にもいくつかあるようです。健康寿命が保て、運転免許証が返納させられないうちにまたお参りしたいものです。

    南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏

御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


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