(過去の「雑色雑光」はこちらからどうぞ)

親鸞聖人御旧跡めぐり(その2) 稲田禅房西念寺をを訪ねて



 親鸞聖人御旧跡寺院で最もよく知られ、多くの参拝者を迎えているのは稲田の草庵跡「西念寺」でありましょう。開基は門弟ではなく親鸞聖人ご本人ということになりますので二十四輩寺院ではありません。
 御伝抄・御絵伝に見える「稲田草庵」を起源とする西念寺は御旧跡の中でも別格。「親鸞聖人 教行信証 御製作地 浄土真宗別格本山」と刻まれた巨大石碑が脇に建つ古色蒼然とした茅葺の山門は関東の真宗古刹の象徴としてよく紹介されています。
 実際、駐車場から石畳の参道をゆくと、深い木立の中に、写真通りのどっしりした山門が現れます。(写真@)
 それをくぐると掃除の行き届いた境内に太鼓楼などの堂宇や記念碑が立ち並びます。驚かされるのは本堂伽藍の大きさ、九間四面に濡縁がつきます。屋根は二重、上段屋根の正面はに大入母屋破風、下段の向拝の上は唐破風それは見事なものです。平成七年に再建されたようです。(写真A)


 御絵伝に描かれる簡素な草庵(写真B)のイメージとのギャップにとまどってしまいます。
 当山は単立寺院で内陣のお荘厳も独特です。本派と大派を折衷したようになっています。さらに特徴的なのはご本尊をはさんで、脇段に宗祖と恵信尼公の像があります。

     

 聖人はここで御本典「教行信証」を製作されました。1224年聖人52才の時。一応の完成をみたとされています。その年を浄土真宗の立教開宗年とされますので、2024年が立教開宗800年ということになります。
 その後、聖人は晩年にいたるまで、これを手元におき、推敲を重ねられました。今、この原本は「板東本」と呼ばれ東本願寺が極めて大切に保持して下さっています。(写真C)

 この他、若き聖人のエピソード「六角告命」を思わせる本堂東の山中には聖人の頂骨が収められているという御廟(写真D)、聖徳太子像が祀られている太子堂があります。(写真E)



 お寺のすぐ南の田んぼの中に「見返り橋」のモニュメントが造られています。聖人は約二〇年の滞在を終えた一二三四年(文暦元)ごろ、京都に向け旅立ちました。稲田御坊や妻子、今生の別れを悲しむ弟子に向かい振り返ったと伝えられています。「見返り橋」の傍らには、聖人が残したとも伝わる励ましの言葉が残ります。
 〜別れじを さのみなげくな法(のり)の友 また会う国の ありと思えば〜。(写真F)
 また、西念寺を東に800mほど離れた町中に「玉日廟」なるものがあります。これが建てられた江戸時代(?)には恵信尼公と玉日姫が同一人とされていたのかしれません。(写真G)



 本堂に置かれているチラシには当山に付設されている研修所において度々に高名な御講師を招いての文化講演会が催されているようです。「学び舎」という役割は稲田草庵から西念寺に八〇〇年の時を刻みながら大切に受け継がれていることに感動しました。
 西念寺様を辞する時、目の前の田に「庵田米」の大看板があることに気づきました。説明板を読むと「いおたまい」土質が良くとても美味しいとのこと。稲田草庵にご家族とともにお住まいになられた聖人も召し上がられたことでしょう。  聖人が上洛された後、関東に派遣された聖人の孫、如信さまが毎年、御正忌報恩講に参詣するときこれを仏供米として三升ずつ背負われて上洛されたとか。西念寺様のHPを見ると、お寺でも予約販売のお手伝いをされているようです。(写真H)
 ちょっと食べてみたいですね。親鸞さまに近づけるかも・・・。

    南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏



御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


▲ページトップに戻る