(過去の「雑色雑光」はこちらからどうぞ)

聞き漏らすまい「石の鐘」の音 奥信濃称名寺を訪ねて



 この9月初旬、2泊3日の信州旅行をしました。ちょっとキツイかとも思いましたが、現地での利便を考え車で行くことにしました。できれば、県境を越えて、新潟の恵信尼公廟所や真宗浄興寺派本山浄興寺も参拝計画の中に入れました。

 盛りだくさんな訪問先のうち、欠いてはならないのは2ケ寺、その1ケ寺は信州への途中、岐阜県垂井町にある明泉寺、ここは大派の寺で、あの大戦中、「戦争は罪悪である」と言い続け、宗門内外からさまざまな弾圧を受ける中、非戦を貫き通した硬骨の僧侶、竹中彰元師がご住職を務められたお寺です。ここへの参拝記はいつか改めて書きたいと思っています。
 もう1ケ寺は北信、信濃町富濃にある称名寺です。このホームページでも今年の2月と5月に、「穴のあいた梵鐘と石の鐘(1)(2)」でふれさせていただいたお寺です。念願かないご住職佐々木五七子さんにお会いし、ゆっくりお話しを伺うことができました。
 富濃のとなりには柏原という在所がありますが、ここは俳人小林一茶が生まれ、亡くなった所です。今、立派な記念館が立ち最期を暮らした家(土蔵)が保存されています。一茶の菩提寺「明専寺」は本派の大寺院で句碑もあります。

 旅の二日目、宿は長野市松代町にとっていましたが、せっかくここまで来ているのだからと善光寺のお朝事(開始は日の出に合わせるということで、その日は午前5時43分でした。)にお参りして、一旦、宿に戻り朝食兼昼食を頂き、9時頃出発。途中、小布施に立ち寄り、北斎館と岩松院、中島千波館で大慌ての美術鑑賞。その後一路信濃町へ。

 ナビの案内は少しヘンで、一時野尻湖畔の別荘地に迷い込みましたが、なんとか午後1時頃には、称名寺に到着できました。参道の石段はきれいに掃除されています。20段ほど登り切ると、大きな本堂とその脇に赤い屋根の鐘楼が、そしてそこには今や全国に知られる「石の鐘」が吊されていました。(写真@)


 ご住職には何の連絡も入れず、お留守を心配しましたが、おられました。庫裡の玄関でお声をかけますと、境内が見渡せる部屋の廊下から、「どうぞ、こっちへ来て〜」と。そこには、映画やネットでよく見ているご住職佐々木五七子さんのお姿がありました。和歌山の本派寺院から来たことを告げると。「ご縁やのう。ようこそようこそ。まあ上がって」と温かくお迎え下さいました。(写真A)
 五七子さんは今、88才、とてもお元気です。石の鐘の由緒については御坊組HP2月の「雑色雑光」に書かせていただいた通りです。「あの鐘はとても良い音だったの、四里四方に届いたの、飯山の人にも。あれは称名寺さんの鐘だねといわれたわ。もうあんな鐘できないよ」と13才まで毎日聞いた鐘の音が耳の底に残っているようです。
 「それがね。昭和17年、私が13才の時、持っていかれたの。母に『お鐘が供出されることになったので、見送りなさい』と遠足の日だったのに引き留められたの。みんなと遠足には行けないし、村の人が大切にしてきたお鐘は戦争にとられる。あんなに悔しかったことはないから、今でも覚えているよ」
 石の鐘には「梵鐘記念 昭和十七年十月 称名寺」と供出された時が刻まれています。(写真BC)

     

 称名寺のシダレザクラは春を告げる町の名物だとのこと。鐘楼建設時に植えたと伝えられるので樹齢250年、巨木です。このお寺のお宝にも戦時中、伐採の危機があったことをお話し下さいました。
 「戦時中の食料増産のために、切って畑にしようという計画がたてられ、ある日、白い腕章をまいた男4人組がやってきた。当時15歳の私は大切な鐘を奪われ、シダレザクラまでも奪われてたまるか。あんなきれいなサクラを切るかわり、どれだけの食料増産ができるか、文書で示してくださいと激しくつめよったの。彼らはそんなこと、ようしなかったのか4人組は帰って行った。お母さんがとても喜んで抱きしめてくれた」このような事を語ってくださる時、五七子さんの穏やかな顔は引き締まります。
 ご本堂にもお参りさせて頂きました。近年大きなお洗濯をされたのか、中国の故事「二十四孝」を題材にした七面の彩色欄間や、漆塗りに金を押した巻障子は光り輝いています。左右の2間づつの襖絵(蓮と天女)は御門徒お知り合いの中国人画家が描いたものだと仰っていました。本堂は寄棟形式なので、外観はそう大きくみえませんが、中は大変広く立派な建物です。さらに庫裡仏間の床の間には蓮如上人の御真筆名号が額装されて懸けられています。お寺の長い歴史を伺わせます。(写真DE)

     

 五七子さんのお話はつきません。若くしてお亡くなりなったお父さんのこと、本願寺第22世大谷光瑞門主の随員として何度も海外へ行かれたおじさんのこと、子どものころおじいさんの寺、福井の大坊超勝寺に預けられたこと・・・。
 最後に、この石の鐘を取り替えるお気持ちは、と尋ねると、きりっとした表情となり「いま、世の中は平和ですか? 平和ではありませんね。こうしているあいだにも、戦車や爆撃による殺し合いで、なんの罪もない子どもや老人、赤ちゃんまでもが死んでいます。そういう戦争がなくなったら、石の鐘は下げてとりかえましょう。」平和への思いには揺るぎはありません。
 お話しの中に次のようなフレーズがよく出てきます。「村の人や御門徒さんがよくしてくれるんだよ」「みんなご縁なんだねえ」「大切なのは和、平和の和だよ。」あっという間の2時間でしたが、大切なメッセージで満たされた濃縮された時間でした。
 帰宅して、自坊の彼岸会でこの石の鐘を紹介するため、この日の写真を整理してパワーポイント用のスライドを作製しました。誤りがあればご迷惑をおかけするので、予め画像をプリントして送らせていただいたところ、五七子さんから「これで結構です」と丁寧なお礼の電話を頂きました。自坊は道成寺の近くであることを話すと「私、子どもの頃、安珍・清姫のこと読んだよ。おもしろかったねえ」と仰っていました。「私は根っからの本好きで子どもの本も大人の本も手当たりしだい読んでいたよ」とのこと。高齢にはなっていますが、頭脳明晰。「戦争と平和の語り部」としてこれからもますますご活躍いただけるものと思いました。(写真F)

 「聞き漏らすまい『石の鐘』の音」 この鐘が伝えようとしているのは、過去の悲惨な体験だけではありません。 新たな戦争は許してはならないと、無言のうちに、そのメッセージを語っていると言えます。 そのメッセージに、私たちは真摯に耳を傾けなければなりません。
 5月のホームページで紹介させていただいた、この石の鐘をテーマとしたスコブル社製作の「夕焼けこやけで 石の鐘のこだまは」というDVD作品が私の手元にあります。この旅の途中、長野市内にある同社を訪ねたところ、江守健治社長にお会いすることができ、お寺の小集会での上映をお認め下さいますようお願いしたところ、快諾していただきました。みなさま方で視聴を希望される方がおられましたら三宝寺まで御一報下さい。9年前のもので、79才の五七子さんが何度も場面に登場されます。

    南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏



御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


▲ページトップに戻る