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滋賀と名古屋への「石の鐘」青春18キップツアー



 明けましておめでとうございます

「北信濃 平和を希う 石の鐘 兵戈無用の 思い新たに」

 昨秋、訪ねた長野県信濃町称名寺でのご住職にお聞かせいただいたお話しを思い出し、今年の年賀状にはこんな「句」を書かせていただきました。撞いても小さくコツンとしか鳴らない「石の鐘」の響きは戦争への警鐘、聞き漏らしてはなりません。
 昨年中に「石の鐘」を訪ねる旅を4回しました。そのうち2回は青春キップ、2回は車です。そのうち、9月6日に訪ねた称名寺さんのことは11月のこの欄に書かせて頂きましたのでここでは他の鐘のお話しです。

 まず、7月21日、青春キップで行った滋賀県草津市の「真教寺」さん、ここにコンクリート製の鐘が今も鐘楼に吊されていることはよく知られています。現在、草津市は大阪、京都への通勤圏、駅前の景観をみると住宅開発が著しく人口も急増しているような気がします。お寺は旧草津宿の本陣近く、住宅街の中にあります。滋賀県に多い真宗仏光寺派のお寺です。小ぶりの太鼓楼門をくぐると瀟洒な本堂と鐘楼が目に入ります。
 その鐘楼の中にはコンクリートで梵鐘の形にしたものが吊されています。この「鐘」には模様は彫られていませんが、大きく重量感があります。戦時中の金属回収令による梵鐘供出の後、七十数年間、これが欅造りの鐘楼のバランスをとり続けています。無言のコンクリートの鐘が、私たちの胸に平和の尊さを響かせてくれているようにも思います。
 ちょうど坊守様が境内の清掃に励んでおられました。お声をかけさせていただきますと、この「鐘」やお寺に伝わる「忠犬しろ(妙雪)」のお話しを聞かせて下さいました。東海道の宿場町にある平和を希うとても温かい真宗寺院です。

 11月9日は、車で湖西へ、高島市マキノ町蛭口にある浄土宗寺院の称名寺さんです。檀家のみなさまでコンクリート鐘を守り続けていると偶然見付けたネットの記事に誘われて行ってきました。市町村合併で高島市は随分と大きくなっています。車のナビ頼みで現地まで直行、お寺は農村地帯の小さな集落にありました。境内地の一角道路沿いに立派な鐘楼がありました。
 そこに吊されているのはコンクリートの鐘、しかし、一見すると、青銅製と見まがいます。ちゃんと胴に模様が彫られ、上部には「乳」がたくさんついています。近づいてさわってみて初めてコンクリートだと気付きます。
 胴の正面には「南無阿弥陀仏」ありますが、後ろ正面には「総力必勝」と浮き彫りされています。これが梵鐘の代替として吊されたのは胴身に穿たれた「紀元二仟六百二年」(「皇紀」の誤りか?昭和17年)でしょうか。
檀家さんとご住職の声をネットの記事(毎日新聞2016年8月19日 滋賀県地方版)から紹介します。
 「檀家の出口健さん(67)らによると、コンクリートの鐘の記憶は薄れているというが、当時15歳だった父敏夫さん(89)は「鐘は強制的に持っていかれた。戦争に使われるんやな、困るな、と思ったが、仕方がない。寂しいので代わりの鐘をつった」と記憶をたどる。」
 「檀家の出口正孝さん(64)は「10年以上前、青銅の鐘に戻したいと思い、見積もりを取ると200万円以上になった。檀家は10軒しかなく、負担しきれないので断念した」と振り返る。」
「嬉野公人住職(53)=市内の正行院(しょうぎょういん)住職が本務=は「戦争の記憶をとどめる貴重な『証人』として伝えていきたい」と話している。」

 このコンクリート鐘を見た時、これは何年か前、高島市今津にある西福寺で偶然見たものと同じではないかと感じました。今津はここからあまり遠くはありません。早速、車をとばして確かめてきました。
 西福寺は真宗大谷派寺院です。そのコンクリート鐘は再鋳された梵鐘が吊されている鐘楼脇に大切に置かれています。(2016年2月のHP「雑色雑光」で既報)
 果たして、この2つのコンクリート鐘は殆ど同じでした。メジャーは当てていませんが、形、大きさ、浮き彫りの文言みな一緒です。この両寺は宗派が違いますが、比較的近い距離にあります。そこに同じ代替梵鐘がある、ということはこれを作るための釣り鐘の「型」があったのではないかと想像できます。代替梵鐘に書き込まれる寺独自の部分は「浮き彫り」ではなく、彫り込まれたり、墨書されたりしています。おそらく湖西・湖北には今は鐘楼からは下ろされていると思われますが、これらと同じコンクリート鐘があるのではないかと思ってしまいます。このようなコンクリート梵鐘の例としては浄土真宗本願寺派福岡教区鞍手組(福岡県宮若市・直方市周辺地域寺院)に共通の様式のコンクリート製代替梵鐘が11鐘も残るとネットにありました。

 12月22日、青春18キップを利用して、名古屋まで出かけてきました。目的地は名古屋市東区にある圓明寺さん。名古屋市のど真ん中にある真宗大谷派の寺院です。さすが青春キップ、御坊発6:23で名古屋駅に着いたのは12:15、もうヘトヘト、さらに地下鉄に乗って高岳(たかおか)駅で下車、そこからは徒歩で7分、少し迷いながらようやく13:00前に圓明寺に到着。
 町中なので境内は広くありませんが、清掃が行き届き、本堂、庫裡そして鐘楼がまことに立派です。「石の鐘」と聞いていましたので、信濃の称名寺さんのような自然石をイメージしていましたが、なんと胴身には青銅の梵鐘と同じような細かな彫刻が施された花崗岩です。これを作製するには相当な手間とお金がかかっているような気がします。

    

 鐘楼近くの塀と門の外に、この「石鐘」についての説明文があります。

    

 この日、境内でゆっくり撮影させていただいておりましたら、法務に出かけるため、御住職が庫裡から出てこられ、お忙しいところ、私一人のために、石鐘を保ち続ける意義、供出時、御門徒さんに配布された「梵鐘」をかたどった土鈴のことなど丁寧にご説明下さいました。上の私が写った写真がご住職が撮ってくださったものです。
この後、大谷派の東別院にお参りして帰路につきましたが、さすが、この年齢になると、往復「青春」はしんどい。鶴橋までは近鉄特急のお世話になり、夜8時には帰宅できました。

 寡聞にして県内のお寺にこのような”現役の石鐘”があるかどうかは知りません。ただ、以前この欄でご紹介しましたように印南町のお寺にはかつて鐘楼を守った石がきちんと保存されています。
 今、これらの「石の鐘」は平和のシンボルとして、各地で注目されています。戦争の愚かさを伝える貴重な語り部です。また、供出された梵鐘の後継が再鋳されるご縁がなく、鐘楼自体を解体したというお寺も組内に複数あります。これもゆゆしき戦争被害として記憶にとどめたいものです。
 法要への参集を促し、一日の始まりと終わりを告げ、一年の終わりをしめくくる梵鐘の響きは平和を希う仏さまの呼び声のような気がします。「兵戈無用」は釈尊の誓い。「戈」は武器・弾丸をさします。15年に及ぶアジア太平洋戦争は、こともあろうに仏さまのお道具まで戦争の武器にしてしまいました。このような時代の再来は絶対あってはならないと気を引き締めました。


    南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏



御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


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