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今度は瀬戸市へ「陶製の鐘」を訪ねる青春18キップツアーU



 代替梵鐘をめぐる冬の青春キップツアー第2弾は瀬戸市への旅です。
 冬の青春キップ5枚は使用期間が短いうえ年末年始が挟まりますのでなかなか使い切れません。そうならば誰か道連れにと今回は現在、日中友好協会和歌山県連理事長を務めて下さり日頃から平和問題に強い関心を持っておられるH氏をお誘いしたところ快く応じてくれました。
 御坊発は朝6:23、それからゴトンゴトンをいくつも乗り継ぐのですが、途中米原駅では熾烈な「席取合戦」に遭遇、老人二人なんとかそれを勝ち抜き名古屋の小曽根駅に到着したのは12時、そこで名鉄瀬戸線に乗り換え、終点の尾張瀬戸駅にたどり着いたのは12:40。我々二人は日頃から長時間机に向かって座り続けることが大の苦手。お尻はもう限界、ここからは、ヒリヒリするお尻をいたわりながら歩くこと約10分、やっと目的地に着きました。
 ここは「紫雲山法雲寺」という真宗大谷派の寺院です。大きな鐘楼が見え案内板も出ています。 大きな寺号碑の脇の階段を上り、立派な山門をくぐると清浄な境内に新しく大きな本堂がそびえています。向拝の屋根には大きな唐獅子の留蓋瓦の他に牡丹の装飾瓦が一対、まことに立派です。庫裡も山門もピッカピカ。境内の隅には旧本堂の鬼瓦が記念として飾られています。
 ここを訪ねたのは「陶製の鐘」が保持、公開されていると知ったからです。ありました。
 その「鐘」は山門脇にフェンスで大切に囲われ、アクリルの屋根で覆われています。脇には瀬戸市教育委員会」が設けた説明板が立っています。
 「鐘」は今、台座の上に置かれていますが実際に鐘楼につるされていたのか上部にはしっかりした大型の釣り手金具がついています。大きさは通常の梵鐘とかわらず全体の形がよく保存されています。質感は分厚い古瓦のようです。ただ上部の「乳」の多くは脱落しています。刻まれた文字も山号寺号銘と名号以外は読むことが難しくなっています。
 説明文には「製作理由 武器製作ノ為メ第二ノ御奉公ニ應召セリ両人ニ依頼シコレ作成セリ(跋文の一部)
 第二次世界大戦中の金属回収令(1942)による不急品適用範囲の拡大により、 寺院の仏具・梵鐘類も強制供出になった。当時は、梵鐘供出と同時に製陶所へ代用品の作成を依頼し、製作したものがこの陶製梵鐘である。瀬戸市に一口あるのみで、おそらく全国的にも皆無と言える貴重な資料である。」とあります。
 その通りでありましょう。さすが「せともの」の町、瀬戸、あの困難な時代によくぞこのような代替梵鐘を作ったものだと感心します。山門の側には「陶製梵鐘」のスタンプ台が設けられていました。 1枚押してみたら可愛い図柄が現れてきました。そこには「市指定有形文化財」とありました。戦時代替梵鐘が「文化財」と認められているところは例がないと思います。説明板のそばには法雲寺が「瀬戸百景」に選定されていることを示す案内板も設置されています。
 瀬戸市は全国で最も知られた焼き物の町でありましょう。尾張瀬戸駅までの道沿いには大きな瀬戸物屋さんがいっぱいです。当日私たちは時間の関係で入場することはかないませんでしたが、記念橋近くには「瀬戸蔵」というミュージアムと物販や飲食店舗が入る大型観光施設があります。 そして今、その外壁には瀬戸市出身の天才少年棋士藤井聡太君の快挙を讃える懸垂幕がかかっていました。
 この陶製梵鐘は町の観光資源の一つなりながら「非戦平和」を市民や観光客に伝える役割を果たしています。貴重な戦争遺産を見ることができました。

ここまで来たのだからと、私が12月22日に訪ねた名古屋市東区の圓明寺と東別院(先月報告)へH氏を案内。
帰りは午後4時半ごろJR金山駅から乗車。またここからトコトコ延々と5時間半鈍行に揺られて御坊に着いたのは午後10時、結局この日、11時間電車に揺られ、駅の外で過ごしたのは5時間。高齢者が「青春」で遊ぶのは大変、ただ幸いなことに、一度も席取合戦に破れることなく座って乗れたのは大正解。キップ残りは2枚、使用期限まではあと2日。どこでもええ、使い切るぞ〜! (2018/1/8)


    南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏



御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


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