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「親鸞聖人御旧跡めぐり(その4)」御本尊は一光三尊仏 栃木県真岡市高田「本寺専修寺」



 二十四輩寺院の多くは現在、本願寺派、もしくは大谷派に属していますが、開基を門弟「真仏房」とする専修寺は真宗高田派に属します、というより、その派名はこの寺が建つ地名に由来します。
 真岡市高田は栃木県の南部、茨城県と接します。稲田西念寺(2017年10月にこの欄で紹介)から車で国道50号線を西に1時間くらい走ったところにあります。
 現在、高田派は三重県津市一身田にある専修寺には「本山」、栃木県の専修寺には「本寺」と冠をつけて区別されています。その本寺の建立について高田派のHPには「親鸞聖人は関東各地を御教化中に、明星天子の夢のお告げを得て、54歳のとき栃木県真岡市高田の地に一宇を建立し、専修念仏の根本道場とせられ(後に専修寺 本寺と称します)ました。ご本尊には、長野の善光寺からお迎えした一光三尊佛をご安置し、聖人門弟の中のリーダーであった真仏上人が管理に当たられました。ここを中心とした教団は、関東各地の檀信徒の中で最も有力な教団となり、京都へお帰りになった聖人からは、しばしば自筆のお手紙や、ご自分で書き写され書物などが送られ、関東の門弟及び檀信徒の御教化にもますます取り組まれておりました」とあります。
 さらに高田教団が大きく発展するのは文明年間、第10世真慧上人が東海、北陸に教線を伸ばし、伊勢の中心寺院として専修寺の前身となる寺を建立したときからです。歴代の上人がそこに居住するようになり、次第にここが「本山専修寺」として定着してゆきました。数多い宗祖の真筆類もここへ移され、親鸞の肖像をはじめ、直弟子などの書写聖教など貴重な収蔵品を多数保持されています。
 私は本山専修寺の報恩講には二十年来、よく参拝させて頂きます。その主たる目的は宝物館において同寺が所蔵する聖人ゆかりの法宝物が年々入れ替えながら一般公開されるからです。ちなみに今年の報恩講参拝では如来堂、御影堂が国宝指定されたことを記念する特別展を鑑賞しました。
 高田本山に参拝する度に、高田教団発祥の地、関東の本寺を訪ねる思いを募らせていましたが、なにせ栃木県は当地からは遠すぎるという思いがあり、旅は実現しませんでした。7年前、教員を定年退職しましたのでヒマは十分できましたし、レンタカーの運転体力もまだ少し残っていそう。行けるのは今しかなと、ここを昨年から始めた二十四輩巡りのワンポイントに加えました。
 昨年1月、二十四輩巡りの一貫として実際に行ってみると真岡市高田は栃木県旧芳賀郡二宮町は西念寺のある茨城県笠間市稲田からはそう遠くはありませんでした。
 本寺専修寺の広い境内に特色ある諸堂が並びます。総門、楼門をくぐると目に映るのは「如来堂」、東向きの本堂はあまり大きくはありませんが、屋根は正面に千鳥破風をのせ、その前に一間の向拝が設置されています。真宗本堂の形としては独特です。堂内に入ると、内陣中央にご本尊「一光三尊仏」の「お前立ち」が安置されています。御本尊は秘仏です。17年に一度御開扉になり、一身田の本山では2014年4月から2016年3月まで日を区切って公開されました。私には、次の17年後はありませんので、2015年4月5日に門徒推進員の細谷廣延氏を誘って、に高田本山にお参りしてきました。その時の様子や「一光三尊仏」についてはこのHP「雑色雑光」(H27.5)に氏が詳しくレポートしてくれています。

 御影堂は境内のほぼ中央に南向きに配置されています。寄棟造としてはとても大きく、三間の向拝がついています。堂の内陣には親鸞聖人等身御影を正面にし、両脇壇に真仏上人坐像と顕智上人坐像が安置されています。本寺御影堂は。外廻りは派手な装飾を抑えた地味なお堂ですが、中へ入ると一転して華麗な装飾が目を奪います。

 境内には他の真宗本山ではほとんどみられない聖徳太子をお祀りする「太子堂」や釈迦涅槃像(木製のものとしては国内最大とか)をお祀りする「涅槃堂」があります。








 私がここを訪ねる最大の目的は、聖人の廟所への参拝です。書物や図録では、古風な墓地に比叡山横川にみられる傘塔婆型の聖人の墓石があることは知っていましたが、それをこの目で確かめたかったからです。
 廟所は専修寺に付属するのですが、境内の外の小さな森の中、探し当てるのに結構時間を取りました。結界のように石柱で囲まれた中にその墓石はありました。墓所の説明板にはここに顕智上人が持ち帰った親鸞聖人の御歯骨9粒が埋められているとあります。
 ネットでもっと詳しい記述を見つけました。

 『真宗念佛のふるさと 本寺 高田山専修寺』の中に「御真骨伝持の祖廟」という段があり、そこに『親鸞聖人の御廟所は全国に数多くありますが、聖人の御真骨を捧持しているのはひとり高田御廟だけです。「高田正統伝」の記述によりますと、聖人の御骨を大谷の墓所に納める時、顕智上人は16粒の御歯骨を桐の筒におさめて高田まで捧持され、その中の9粒を御廟に納め、7粒は御自身がお持ちになったとあります。近年になって、本山の宝庫からこれを明確に裏づける史料として、顕智上人御自筆で「鸞聖人の御骨」と記された包み紙と、容器に納められた御遺骨(歯骨とは思われない)が発見されました。
 大谷本廟がしばしば破却されて、元の所在が不明である現在、この本寺の祖廟こそは、聖人の御真骨を納めた唯一無二の本廟であります。』と。

 現在、その7粒のうち5粒は一身田の本山廟所に納められているとのこと、残り2粒は本山宝庫にそのまま納骨容器に入れて保存されています。2012年4月に行われた高田本山の「開山聖人宗祖750回遠忌報恩大法会」の折、宝物館でその実物が公開されるというので、私はそれを見たさにわざわざ出かけてきました。真鍮とガラスでできた容器の中に収まっている臼歯(?)がとても大きくきれいであったことが目に焼き付いています。聖人があの鎌倉の時代、90歳という無類の長寿を喜ばれた秘訣はしっかりした歯を保ち続けたことにあったのか、と感心しました。

 本山機能は移したとはいえ、本寺専修寺の古風な伽藍は聖人の活動を支えた当時の高田門徒の熱い思いを感じさせます。

 ただ残念なのは近くにあるはずの「三谷草庵跡」は探し当てることができませんでした。「御旧跡めぐり」は車のナビを頼りにしてもなかなかたどり着けません。ちょっとマイナーになるとすぐ近くでお人に訪ねても存じない方が大半だと感じます。十分な下調べがいるようです。


    南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏




御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


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