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代替梵鐘は大切な仏様のお道具、単なる重しではない




 私の「石の鐘」を訪ねる旅は続いています。
昨年11月、北九州と愛知に日帰りのあわただしい旅をしてきました。多くのお寺で、あの時代を証言する貴重な石鐘、コンクリート鐘に出会わせていただきました。
 11月14日、関空からピーチを利用しての福岡日帰り旅は私にとっては3度目、午前9時前には駅前のレンタカー店に入ることができました。まずは同行者(坊守)の機嫌をとるため、柳川市へ。
 車載のナビが古く、少し遠回りしましたが、1時間半ぐらいで到着。まず柳川藩主立花邸「御花」の立派な建物とお庭をじっくり拝見、大急ぎでお濠ばたの柳並木の路を川下りの船を眺めながら散策。名物うなぎの「せいろ蒸し」は懐の都合でお店の前で匂いだけ頂戴。
 この日の「御花」周辺は外国からの観光客でいっぱい。川下りの船頭さんも中国語?で歌を披露、お客さんからヤンヤの喝さいを浴びておられました。柳川滞在は1時間余りで切り上げ、九州自動車道を北上、一路100キロ先の直方へ。
 インターネットの情報で、戦時中、本願寺派福岡教区鞍手組(福岡県宮若市・直方市周辺地域寺院36ケ寺)の27ケ寺が梵鐘を供出、うち15ケ寺がコンクリート製代替梵鐘を吊し、今も11ケ寺にそれが保持されていることを知りました。ネットの写真を見る限りそれらがすべて 同形同大であるように見えますが、それを確認するのが今回の旅の目的でした。
 直方市に着き、まず巨大な山門(楼門型)・本堂で知られる願照寺さんにお参りしました。境内の広さ、諸堂の立派さには圧倒されます。高い鐘楼に吊るされた大梵鐘はは戦後に再鋳されたものですので、元のものは供出されたと思われますが、ここには代替梵鐘はありません。

 次に訪ねたのは真照寺さん、立派な山門の脇に台座を設けてその上に安置されています。とてもコンクリート製とは思えぬ紋様が浮彫されています。「梵鐘」の縦帯部分には「皇紀二千六百二年」「大東亜戦争供出記念」の文字が力強く浮き上がっています。「池の間」には奉納者と製作者名が書かれています。大事に保管されていたのか「乳」もほとんどそのまま残っています。もう「代替」とは呼ぶのは申し訳ないほどの立派な芸術作品です。
 次は萬福寺さん、紅葉のきれいな境内、新たな梵鐘をかけた鐘楼脇に置かれています。奉納者名を除いて紋様等は真照寺さんのものと同一。
 次に訪ねた清光寺さんはその鐘を本堂前、誰もが気づく場所に台座を設けて安置されています。同寺が経営されている「清光寺幼稚園」の子どもたちが週一回本堂参拝されるたびに目にすることができます。形、大きさは他寺のものと同じです。ここで育った子どもたちが、いつの日かこの「鐘」の意味を理解してくれることでしょう。
 なお、この日、丁度「報恩講」がお勤まりになっていました。午後二時半、ご満座のお説教の休憩時間でした。境内の私どもに気づかれた坊守さまが、本堂へ招き入れてくださいました。島根県津和野の村上元師のご法話を一席聴聞させていただくというご縁に恵まれました。また、ここを辞するとき、お供物とともに参拝記念にと2016年4月の熊本地震で倒壊した益北組寺院の本堂・鐘楼の柱・梁を材料にして制作された「益北組復興念珠」一連を頂戴いたしました。まことに勿体ないことでした。
 だいぶ日が傾いてきましたが、大慌てで直方の隣街、宮若市の三ケ寺をめぐりました。明覚寺、法蓮寺、仏厳寺といずれも大変大きな伽藍を構える寺で、同大同形のコンクリート代替梵鐘が大切に保存されていました。

  

 お寺の閉門時間が迫ってきましたので、ここで今回の代替梵鐘の探索は終了。鞍手組にはあと5鐘あるはずですが、また別の機会にします。ここのコンクリート鐘の特徴は、しっかりした「型」があったのでしょうか、同形同大で実に精巧に作られていることです。「字」も力強く戦勝の願いが現れています。製作者名として「直方市 村尾勘市」さんと読み取ることができますが、器用な左官さんがにわかに作ったというより芸術家の作品のようです。
 新聞記事(朝日新聞デジタル2015.8.13)によりますと、この直鞍地方の様々な宗派寺院約100ケ寺を訪ね、コンクリート鐘を調査した愛知県護国神社資料編纂室の元杭和則氏は24鐘のコンクリート鐘があること、そしてその製作者はすべて「直方市 村尾勘市」氏であることを明らかにされています。

 これらの鐘には奉納者の名が記されています。信心篤い御同行が代替梵鐘は単なる鐘楼を守る「重し」ではない、「大切な仏さまのお道具」と思われたのではないでしょうか。熊本県玉名市 蓮華院誕生寺奥之院のホームページに「『梵鐘は坐した仏の姿なり』と申し、鐘の音は、仏音『仏様の声』と申します。」とありました。この鐘の丁寧で頑丈なつくりからはご門徒衆の仏さまに対するただならぬ思いが伝わります。幸い直方の町は大きな空襲にあわなかったためこれらの代替梵鐘が残ったのでしょうか。寡聞にして、このように組をあげて代替梵鐘を作られたという例が他にもあったのかどうかは知りません。

 晩秋の日没は早く、この旅の最後の訪問寺、福岡市東区馬出にある稱名寺(時宗)に急ぎました。ここには昭和19年まで「博多大仏」があったところです。当時、奈良、鎌倉に次ぐ大きさの大仏が野外にありました。現在はその台座を残すのみ。私が当日そこに着いたのは日没寸前、台座大きさから往時の像姿が偲ばれます。もし、これが残っていたら、この時間西日を背から浴び、極楽世界を感じさせる風景が境内に広がっていたことでしょう。「金属類回収令」は寺院から仏具の供出を強いましたが、寺院の本尊仏は信仰の対象として例外となりました。しかし、本尊でない仏像に関しては容赦なかったようです。

 この日の代替梵鐘の探索旅はここで終了。福岡空港は街の中心部からは遠くなく、レンタカーの燃料タンクを満杯にして無事返却。午後9時20分発のピーチで関空へ。自坊に帰り着いたのは日付が変わる直前でした。愛知への旅報告は後日。




                    南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏


御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


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