(過去の「雑色雑光」はこちらからどうぞ)

光明寺住職三輪信照師を偲んで




 光明寺住職三輪信照師ご逝去の訃報は、師を知る人々すべてを驚かせました。あの台風禍から本堂を復興させ、2週間後にその修復落慶法要を予定されていたところでした。5月30日の午後に建設業者と修復工事の最後の打ち合わせを行い、完成なった本堂を受け取ったところだったとお聞きしました。被災から修復工事完成までの日々、多くの公職を持たれた身に幾多の気苦労が重なっていたのでしょうか。師が導師となる晴れがましい落慶法要を楽しみにしていた御門徒様方の落胆と悲しみはいかほどでありましょうか。本堂の黒板には師が書かれた、法要次第がそのまま残されています。
 私どもは信照師をお呼びするときは「光明寺さん」「三尾さん」そして「マコちゃん」でした。年齢が近かった法中方からは「マコちゃん」で通っていました。私は7歳ほど下になりますが、宴席などでは、ついつい「マコちゃん」と口をついておりました。師は誰とも隔てなくお付き合い下さる方で組の潤滑油の役割を果たして下さいました。
 師の活動は宗門内にとどまらず、民生児童委員、選挙管理委員、老人会、社会福祉法人理事、ボランテイア、楽器演奏、イベントのプロデュースとまさに八面六臂の活躍で多様な能力をお人のために発揮し続けてくださった生涯でありました。以下は6月3日に厳修された葬儀における組長の弔辞を掲載させていただき、師をお忍びさせていただきます。


 (なお、このコーナーにアップしております写真は坊守様から提供されたものです)


弔辞
 謹んで 光明寺住職三輪信照師のご葬儀に当たり、御坊組を代表して、衷心より哀悼の意を表します。この度の師の命終には驚く他ありません。一週間前、総代会の総会にご出席下さり、終了後、別院事務所で仏婦総会の段取りをご相談したところです。そこでは体調の不安など微塵も感じるところはありませんでした。「組長のあいさつよろしく頼んどくで」がお聞きした最後の言葉となりました。
 昨年9月4日の台風21号による当山の罹災は甚大で、本堂の被害としては教区内で最も深刻なものでした。ご住職の嘆きとその後の不安は如何ばかりであったことでしょう。
 しかし、さまざまな御縁が満ちて、こんなに早く修復できました。そして、さ来週には落慶法要を迎える予定で、着々とその準備が整えられている最中でした。その晴れの法要にお遭いしていただけないのはまことに残念です。
 ご住職は、かつて組を代表する教区会議員をおを勤め下さったこともありましたが、ここ何年かは組の仏教婦人会の育成にご尽力下さっていました。毎年の仏婦総会ではギターを奏でながら仏教賛歌を教えて下さり、楽しい語りで仏さまのお心を分かりやすく伝えて下さいました。度々仏婦で研修旅行を企画して下さったこともうれしいことでした。

  

 師は住職経験が長く、人の心をつかむことに長けておられました。組内法中方と親しく交わられ、組会での議論をうまくリードして下さいました。地域にあっては、長く「民生児童委員」を務められたほか、社会福祉法人の理事や三尾老人会の会長としても活躍、町の選挙管理員も委嘱されるなど地域に欠かせぬは存在でありました。



 また、ご住職はギターの名手、竜谷大学の学生時代ジャズバンドをつくり活躍、当地に帰ってもギター教室を開いたり、プロのバンドを招き自らも加わって、地元のジャズファンを楽しませて下さったことも忘れられません。また、定期的に町内の老人ホームで開催されていた音楽教室はビハーラ活動の先駆でありましょう。

 3年前の仏婦総会で師から「なだめ」という少し古い仏教讃歌を教えていただきました。その歌詞の1番は「浮世の縁(えにし)かぎりきて 別れて逝きし法の友 仏のみ前に幸あらん 涙のうちに なだめあり」 4番には「肉の眼(まなこ)は閉ずるとも 妙なる法の眼(まなこ)もてわれらが聚(まとい)を見るあらん なげきのうちになだめあり」とあります。本日この葬儀に参集した私どもは等しくこの思いに浸っております。
 思わぬ形ではありましたが、ご住職の念願だった本堂の復興がなりました。欅の木目がよみがえった大本堂に新調された仏具が輝いております。前にも増して立派な念仏道場が立ち上がりました。この後は御門徒様に支えられながら、映信様がお念仏繁盛の要となって下さることでありましょう。
 ご住職さまのこれまでのご門徒方への御教導を讃え、長年の組、教区、宗派への献身に感謝して、御礼の言葉といたします。

                        南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
  2019(令和元)年 6月3日



 なお、7月15日には、信照師の満中陰法要が修復なった本堂いっぱいにご門徒さんが参集されるなか、阿尾光徳寺さんを導師として師とご縁が深かった法中8名が出勤して厳修されました。御導師は、法話の中で往生は浄土に仏として生まれること、阿弥陀さまの一人ばたらきで仏にならしていただくことであり、読経・称名は決して追善供養ではないことをお話し下さいました。
 法要の終わりに、副住職映信師がご挨拶に立たれ、この満中陰が15日に行われることの意味を話されました。光明寺さまは年間を通じ毎月15日に戦没者追悼法座を開いている。そこでは導師の住職も外陣に座し、参詣のご門徒方共々平座でお勤めしてきた、この満中陰法要はそれに倣って出勤の法中方にも外陣でのお勤めをお願いしたとのこと。まことに当を得た法要の形でした。

 私はこのご挨拶を聞かせてもらいながら「親鸞聖人正明伝」(史実とは認められないとする説も強いですが)にある「二十五日のお念仏」というお話を思い出しました。
「御還洛の始より、毎月二十五日、源空上人の忌をむかへ、人人集会し、声明の宗匠を屈請して、念仏勤行ありて、ねむごろに師恩を謝したまへり。御消息の中に、二十五日の御念仏と云へるは是ことなり。」
信照師も長年にわたって、十五日すなわち親鸞聖人の「お逮夜」を機縁として聖人への謝徳ならびに若くして戦争の犠牲になった方々を追悼されてきたことをたいへん尊く存じます。信照師のこの地道な法座活動がこれからも大切に継続されてゆかれますよう念じております。

 

 前列右から2人目が三輪信照氏、厚かましくも4番目が私(湯川)です。師とご一緒に表彰されましたこと今更ながら有難く光栄に存じております。信照師の栄誉は長年にわたる「民生児童委員」としての御活躍を称えるものでありましょう。私のは長く「美浜町文化財保護審議員」であっただけのことです。
 6番目の大きな写真は、仏婦の研修旅行のものでありましょう。当時の榎正晋組長が中央に写っています。若かりし信照師が引率してくださった「天橋立」紀行のようです。




       南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏


御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


▲ページトップに戻る