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蓮如上人布教の地 ー越前吉崎御坊を訪ねてー




 まだ残暑厳しい九月初旬のこと、大阪から特急サンダーバードに乗り、一路越前芦原温泉駅に向かいました。そこからタクシーに乗り、吉崎御坊に着きました。
 吉崎は三方、海に囲まれた要害の地で、蓮如上人は小高い山を切り開き、浄土真宗の北陸布教の拠点として坊舎を建てたのでした。現在は建物はなく、跡地は国の史跡となっています。そこには高村光雲作の大きな蓮如聖人像が立っていました。蓮如上人は四十三歳で本願寺の門主となり、当時、一向宗とよばれていた宗派の復興に力を注ぎました。しかし、そのことが比叡山延暦寺の反感を買い、迫害を受けることになりました。身の危険を感じた上人は、京都を離れ、各地で布教の後、吉崎を北陸布教の拠点としたのでした。

 翌朝5:30。誠にスッキリと目覚め、6:30 頃に本堂へ。すると本堂の鉄扉がもう開いいます。7:00 の晨朝参拝にどうやらゆとりをもって参拝できそうです。でもすでに7〜8名の方が着席されていました。(築地寺本願寺は全て椅子席です)残念乍ら一番乗りは出来ませんでしたが、焼香し、貸し出し用の晨朝聖典を手に取りました。すると今日のご和讃の所に華葩(ケハ)が挟まれているではありませんか。参拝の私達のためにここまでしておいてくださるのかと心に温かい灯が点りました。
 京から偉い坊さんが来たというので、各地から大勢の人々が参拝に訪れ、門前には多屋とよばれた宿坊が軒を連ねる一大宗教都市と発展しました。
 そこに集まる人々の結集は、やがて支配者に反抗する力となりました。いわゆる一向一揆です。上人はこれを静めようとしましたが、効果なく、身の危険を感じた上人は、ひそかに船で吉崎を離れました。文明七年(一四七五年)吉崎滞在はわずか四年余りでした。その後は、御坊を訪ねる者は少なくなり、大宗教都市は蜃気楼のように消滅していきました。

 その堂宇が建てられた山ふもとに、今、願慶寺と東西本願寺の別院が静かに「蓮如の里」を守っています。私は住職のいる願慶寺に参拝し、住職から吉崎御坊についての熱のこもった説明を聞き、「嫁おどし肉附面」を拝見しました。
 その後、レストランを兼ねた蓮如上人記念館を訪れ、上人の御文や直筆の六字名号を拝見した後そこで遅い昼食をとり、芦原温泉駅に戻りました。秋の短い北陸の旅でした。




          南無阿弥陀仏
                      三宝寺門徒総代 椎崎武雄


[住職補足]
 蓮如上人のご一生は「蓮如上人絵伝」と呼ばれる四幅の掛け軸に表されますが、多くのお寺が保持して報恩講に奉懸される「親鸞聖人御絵伝」と違って、全国的にその数は極めて少なく貴重なものです。またその絵柄には、その寺の縁起と蓮如上人の係りを表すものも含まれることが多く、本ごとに絵柄が違っています。しかし、吉崎御坊でのいくつかのエピソードはどの絵伝でも重要なモチーフとなっています。

  

上記の絵伝は組内のある寺院が所蔵するもので、上が「嫁おどし肉附面」で、下が「腹ごもりの聖教」の場面です。この吉崎での出来事を欠く「蓮如上人絵伝」を私は知りません。
 また何年か前、訪ねた愛知県日進市の宗教公園「五色園」でも「嫁おどし肉附面」の場面が大きなコンクリート塑像で作られているのを見ました。

  

「荒唐無稽」との批判があることは知っていますが、史実のみが宗教心を深めるものではないと私は思っています。(三宝寺住職 湯川逸紀)




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