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「御文章」にもあった「令和」




 あけましておめでとうございます。
 今年もこのHPをお訪ね下さり有難うございます。

 今年は「令和」となって初めてのお正月ということで、何やら違った気分で新春をお迎えされた方もおられることでありましょう。私は日ごろから、もっぱら日時を記すのは西暦表記で「元号」を使用することはありません。近年本山、教区から届く書類も西暦表記ですので元号を知らずとも不自由はありません。

 旧臘初旬、自坊の前総代であったK氏が73歳でご逝去されました。入山の出身ではありますが、有田市に住んで起業し、多くの従業員を率いておられました。人望厚く市会議員(議長にも就任)としても御活躍。困っている人を放っておくことができず、県内外の被災地でのボランティア活動にも精を出されました。数年前、議員を退任されてからは、入山のご実家の田畑の手入れに日参されておられました。そのお人柄を知る門徒さんから推され、三宝寺の「総代」をお引き受け下さっていました。まことに残念な早逝でした。

 葬儀も終わり、還骨勤行のためにK家を訪ねた折、奥様が『きょうは白骨の御文章』を誦んで下さるのですね。」と仰って御文章箱を出してくださいました。
 「先生、この前、私、気が付いたのですが、この御文章の最後の部分に、『令和』という文言が入った一通があるのですね」と仰いました。意外な質問で、その場では即答できず。お勤めが終わって、その御文章の最後のページを開きますと、ちゃんとあるんです。御文章の奥書のような部分で、蓮如上人の御消息ではありません。文化6年という年号がそえられています。こんな時代に「令和」という言葉があったとは・・・全く驚きました。
 この「御文章」は普通ご門徒のお内仏にある「一冊もの」ではありません。お寺にある「御文章(五帖一部)」と呼ばれるものを丹念に筆で写し、和綴じしてやわらかい表紙をつけたものです。句読点や濁点などが朱で加えられています。もともとK家には5帖あったと思われますが、今は少し大きめの御文章箱に3帖が残ります。
 自坊にも「御文章(五帖一部)」はありますが、本堂で依用しているのは蓮如上人500回遠忌を記念して、1996年に即如門主が開版してくださった漢字まじりのひらがなで書かれた「御文章」です。ここには奥書はありません。

 自坊の「御文章(五帖一部)」を見てみました。果たして・・・ありました。最終ページにK家宅のものと同じ記述がありました。「令和」も見えます。長らくこの寺の住職をさせてもらいながら、また、20年ほど前まではこの御文章をよく拝読させて頂きながら、奥書があることさえ気づきませんでした。古文書の「くずし字」には全く疎い私ですので、誤りがあるかもしれませんが、活字に起こしてみました。

 「此五帖一部之文章者信證院蓮如對愚昧衆生所令和述之消息而祖師相傳之一途也庶幾一道俗薫誦之聴聞之決擇正義發得信心速可遂報土往生之素懷者也
 貞享元季九月廿五日
  寂如(花押)書」


K家のものも、文面は同じで、日付けが「文化六年己夏五月謹写」です。内容の解釈は、はなはだ心もとないですが、意訳してみました。文責はすべて私にあります。

 「この五帖一部の文章は信證院蓮如上人が愚かで道理にくらい衆生(私ども)に和らげしめる所を述べてくださったお手紙です。
 祖師(親鸞聖人)から代々これをまっすぐ伝えてきたものであり、念仏を心から喜ぶ僧侶、俗人がこれを繰り返し繰り返し読みとなえ聴聞することをこい願うものです。そうすれば正しい御法義を選びとり、間違いのない信心を得ることになりましょう。
 そうならば、私たちはかねてからの浄土往生の願いをただちに遂げる者となりましょう。」


 蓮如上人が御文章を本格的に書きはじめるのは、文明三年(1471)、上人が吉崎に移ってからのことです。蓮如上人が書いた御文章の数は多く、現在、知られているものだけでも220余通に及んでいます。このように御文章はきわめて多く書かれているとはいえ、蓮如上人がそこで主張しているのは一つのことだけです。それは、信を得よ、ということです。
 「御文章(五帖一部)」に編まれているのは80通、ご門徒さまのお内仏に置かれている御文章箱には、時の御門主様がそのうち20通〜30通を選び一冊に編まれたものや、30通あまりで編まれた「御加御文章」と呼ばれるものが入っていることが多いようです。
 御文章は一通、一通が短い文章でありながらも、それぞれに真宗の教えの要諦が的確に書きあらわされています。これについては、古くより、御文章は千のものを百に、百のものを十に、十のものを一に選んで書かれたものだ、ということがいわれます。肝要なことのみを述べたものだということです。その上で、御文章は論旨が明快であり、文章も平明(現代人にはそうともいえませんが)につづられています。この奥書はまさにこのことを確認してくださっています。

 左の写真は「御文章(五帖一部)」の五帖目本です。左が三宝寺所蔵本 右がK家所蔵本です。少し大きさと厚みが違っています。K家のものはよく拝読されたのか表紙が痛んでいます。
 蓮如上人は「お聖教はよみやぶれ」というお言葉を残されていますがK家歴代、よく読み継がれました。それも手書きされたものです。傷みも含めてその値打ちに感服しました。
 この 「御文章(五帖一部)」の奥書については 本派では本願寺第14代寂如上人が貞享元年(1684)に開版された『御文章』に記して以来、代々鏡如上人までこの奥書の様式が踏襲(法如上人と明如上人の一部の五帖本は奥書を欠く)されたようです。K家所蔵のものはどの時代のものを筆写されたのかわかりませんが、文化六年といえば今から210年前、本願寺では第19代本如上人が御在職のころです。なお、K家は当主が享保年間までさかのぼれる入山屈指の旧家です。
 もう一つ気になったことは「令和」の出拠は万葉集巻五、梅花の歌32首の序にある「于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」(時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き蘭は珮後の香を薫す)とされます。この「薫」という字が五帖御文章の奥書にある「薫誦」という余り使われない言葉との結びつきを感じてしまいます。
 御門主時代が長かった寂如上人は万葉集を深く読み込まれておられたのでしょうか。またはそれに詳しい側近がおられたのでしょうか。無責任な想像をしてしまいます。

 2020年、令和2年が 「天下和順 日月清明 風雨以時 災歯s起 国豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修礼讓」(仏さまの教えによって)「天下が太平であり、太陽も月も清く明らかに照らし、風や雨は時にかなって程よく恵みをもたらし、災害や疫病は起こらず、国家は豊かで民は安らぎ豊かになって、戦争の武器は用いることなく、人々は互いに仁を尊び礼儀と謙譲の道を守る。)」こういう一年になってもらいたいものですね。


          南無阿弥陀仏   南無阿弥陀仏
 

御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


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