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「わだつみこえ」を聞き続けよう



 私の部屋の本棚の片隅に表紙が随分と傷んだ一冊のハードカバーがあります。母の愛読書であった「きけわだつみのこえ(日本戰歿學生手記編集委員會編)」です。
 そのとなりには「はるかなる山河に(東大戦歿学生手記編集委員会編)」そのとなりには「わだつみのこえに應える(東大協同組合出版部編)」が並んでいます。いずれも1950年前後に東大協同組合出版部から出版された初版本で、「はるかなる山河に」には「贈呈」の印が押されています。
 前2冊には、20才で戦病死した母の弟(私の叔父、山根明さんの一文が掲載されています。「應える」には「遺族からの手紙」として、明さんの父(私の祖父)山根徳太郎が一文を寄せています。母はこの3冊をとても大切にしていました。特に多くの戦没学徒の遺稿が集められた「きけわだつみのこえ」は後にさまざまな出版社から改訂版が出版されましたが、母はそのたびに購入して、弟の思い出に浸っておりました。


 先日、京都の山根家の後に住んだ従兄(母の姉の長男)の奥様から「明さんの資料が出てきましたので預かって下さい」と願われました。
 従兄が3年前亡くなり、その資料は戦後ずっと祖父母が整理し、その後、明さんの姉が引継ぎ、さらに従兄が大切に保管してくれていたものです。明さんの20年間の写真、大学学生証、小・中学時代の成績表、表彰状、ノートや手紙、絵画作品などです。家族として、とても廃棄できるものではなかったものです。
 終戦の翌年届いた明さんの戦死の公報や戦病死についての上官の報告書、無事帰還した戦友からの詳しい病状報告の手紙もありました。家族にとっては、涙なくしては読むことはできなかったものばかりです。

 書籍「きけわだつみのこえ」についてそのWikipediaの書評にはこうあります。

 『きけ わだつみのこえ』は、若い戦没者に人間としての光を当てただけでなく特に学徒兵の多くは己の学業が心ならずも頓挫し、自分が異常な状況に置かれていることを深く見つめた内容を記述しており、本来であれば平和に生きていたはずの若者が、免れようのない死と直に向き合ったとき、どのように感じるのか、ということを伝えてくる。当時の軍国主義的潮流下にあった戦陣訓世代などと呼ばれていた人々の評価を覆すものとして大きな衝撃を与えた。

 私は2年前の夏、母からよく聞いていた東大赤門前にある 「わだつみのこえ記念館」を訪ねました。そこには戦没学徒の遺稿・遺品が遺族から提供され公開されています。以前に訪ねた知覧や鹿屋の特攻記念館でも感じましたが、どれも、20代そこそこの若者が書かれた文章とは思えない深さがあります。叔父明さんの写真やノート、旧制高校時代に友人に宛てた手紙が陳列されていました。祖父母や伯母が提供したものと思われます。

「わだつみの像」の製作
 『きけ わだつみのこえ』が全国の戦没学生が遺した手記を集めて編集・刊行されましたが。同書は社会の大きな反響を呼び、たちまちにして版を重ねた。刊行をきっかけに結成された日本戦没学生記念会(わだつみ会)は、刊行収入を基金として、彫刻家本郷新氏に依頼し戦没学生記念像を制作されました。一般的に「わだつみ像」と呼ばれているものです。

 

 当初東大構内に建てるつもりであったものが、大学当局から建設を拒否されたと「わだつみのこえ記念館」を訪ねた時、山辺昌彦館長氏からお聞きしました。結局、完成した像は、末川博氏が総長をされていた立命館大学に建てられましたが、1969年、一部学生がそれを破壊するという悲劇が起こり、現在は再鋳造されたものが同大学国際平和ミュージアムの玄関ホールに立っていて、通行人にも見ることができるとのことです。
 「わだつみ像」については佐藤広也氏(北海道教育大学非常勤講師・札幌市立石山南小学校教諭 )が「彫刻家本郷新の『わだつみの声』像通覧 断絶と継承から平和を構築するために(立命館平和研究 (11), 29-62, 2010 )」 と題する論文をネット上で公開して下さっています。それによれば、「わだつみの像」は石膏像やエスキースを含めると全国に20体を超す数があることが示されています。わだつみ会館の中にも小さな一体が展示室に置かれていました。
 また、なんと和歌山にもあります。先日確認してきました。
 場所は和歌山市土入の和歌山市立市民体育館の玄関前広場の中央に高い台の上に立っています。しかし、像名は「青年の像」となっています。台座にある作家のサインや製作された日時は他の「わだつみ像」と同じ。特徴あるその像容も全国の「わだつみ像」との違いはないように私の目には映りました。なぜここに建立されたのか、なぜ像名がここだけが違うのか、は私にはわかりません。佐藤氏は論文の中、「青年の像」が建立された時(1985年6月)の市長は立命館大学出身であることを指摘しています。

 「きけ わだつみのこえ」という書名は、学徒兵の遺稿を出版する際に、全国から書名を公募し、応募のあった約2千通の中から京都府在住の藤谷多喜雄氏のものが採用されました。氏のそもそもの応募作は「はてしなきわだつみ」であったようですが、それに添えて応募用紙に「なげけるか いかれるか/はたもだせるか/きけ はてしなきわだつみのこえ」という短歌が添付されていたと伝わります。なお、この詩は同書の巻頭に記載されています。この短歌の意味は「嘆くのか、怒るのか、それとも黙るのか 聞け 果てしなき 海神の声を」です。

 戦後76年、学徒兵の多くは独身のまま戦場に倒れたことでありましょう。その無念の思いを継ぐ縁者も少なくなっています。明さんの死で母の実家、山根家は絶家しました。全国に、いや世界にこのような家系は数えきれないことでしょう。
 明さんの「きけわだつみのこえ」に残した「應召を前にして心の友に」と題した哲学的な文章の最後は「私の生活が全く基礎上しっかり立ってをったか否かということは問題でありませう。ただそれを期して生活したといふことはいひきれます。この私の生活と學校と國家と三者の分離、これがこの時期のなやみでした。」と結ばれます。
 私のような凡庸なものには、明さんの思索の深淵を覗くことはできませんが、国の戦時体制が強化されるなか、学校、個人の閉塞感が伝わります。

 明さんの死についての山根家の親、きょうだいの嘆きと怒りは、それぞれが亡くなるまで癒えることはありませんでした。そして、その気持ちは甥である私も引き継ぎます。非戦平和の訴えは止めません。

 「兵戈無用(ひょうがむよう)」お釈迦様の示される「兵士も武器もいらない」世界は、決して実現不可能な夢ではないはずです。 戦争がおわって日本国中の人がこんな悲惨な戦争は二度と繰り返してはならない、 人間は縁によれば何をしでかすかわからない、その危うさを見つめながら、 お釈迦様のこの言葉を心に刻んで、歩んでいこうではありませんか。


                     南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

                            入山三宝寺住職 湯川逸紀












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