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親友S君との別れ 


 7月16日夕方、和歌山市であった「中国百科検定」を受験して疲れ果て帰宅した私に坊守からとんでもない訃報を聞かされました。泉南和泉市に住むS君が急逝したというのです。
 全く信じがたい報です。つい二週間程前、私が毎年、堺市に在住するご門徒宅に盆参りする予定の8月7日にお会いしようと電話で約束しておりました。まさかこんなことになろうとは・・・。

 S君とは高校一年からのお付き合いですから、もう55年になりますか。京都で過ごした浪人+大学時代の5年間、通った予備校も大学も違いますが、その楽しい日々の思い出は今も私に力を与えてくれます。明るく面倒見の良い彼は誰からも好かれました。
 大学卒業後、関西に本部がある大手スーパーに入社、D大学商学部で学んだ知識を生かし、社内でも活躍、本部の重要な役職につき、あちこちの支店長を勤め、会社の業績アップに大いに貢献してきました。 また若い時は労組の専従役員として従業員の福祉向上に勤めておられました。

 この度のS君の命終、痛恨の極みです。御坊市内にある実家はお兄さんが守られていますが、墓参のためよく帰省していました。 多趣味で退職後は海釣り、家庭菜園、ドライブと人生を大いに楽しんでおられました。 よく尾鷲の海に釣行し、その幸を私方まで持参してくれることも度々でした。 冒険家で学生時代にはアメリカ大陸を単独で横断旅行されました。会社を定年退職した後はキャンピングカーならぬ軽の箱バンに畳一枚を敷き日本全国を旅していました。「道の駅」の駐車場が定宿、各地の産物をメールとともに私方に送ってきてくれました。
 全く健康でとても私にはできない趣味を楽しんでおられました。退職金で中古のオープンカーを買い、それを駆って私を松坂市のお肉の名店「和田金」に連れて行ってくれたことがありました。その「すき焼き」の味は忘れましたが超高価な値段だけは記憶に残っています。みんなS君のおごり、太っ腹です。
 最近、体調については、いくつかの病名をあげて話されることがありましたが、私よりはるかに健康そうで、この死因が「心筋梗塞」であったと聞かされましたが肯くことができません。家族思いで、友人思い。随分と気遣いされる性格で、私どもはすっかり甘えておりました。

 仏説無量寿経に「和顔愛語(わげんあいご)先意承問(せんいじょうもん」とあります。 “和やかな顔と、思いやりの言葉で人に接することで、相手の気持ちをいたわって、先に相手の気持ちを察して、相手のために何が出来るか? を考えて、自ら進んで、手を差し伸べていく”という意味です。S君の歩んできた道はまさにこの通りでした。

 親鸞聖人は最晩年、有阿弥陀仏というお弟子に対しての手紙の末尾に「この身は、いまは、としきはまりて候らへば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。」とご心境を語られています。

 私も、親鸞聖人は勿論ですが、お浄土にてS君もこの私を待ってくださっていると確信します。いつも頂く『仏説阿弥陀経』に「倶(とも)に一つの処(ところ)で会(あ)う」というご文(もん)があります。同じ阿弥陀さまのお浄土でまた共に会わせていただくという意味です。 阿弥陀さまは、この私を必ず浄土に往(ゆ)き生まれさせ仏にさせると願われ、今「南無阿弥陀仏」と私にはたらいてくださっています。

 もう、この世でS君の温容は拝することはできませんが、その笑顔はお念仏とともに私の胸に蘇ってきてくださいます。 「先に言って待ってるぞ」とおっしゃって下さる方がおり、この私も「みんな待ってる所に私も帰るのだ…」といただいていきます。 これが仏教で言う「安心(あんじん)」そして、その安心をいただきながら、今日という一日を「生きている間は、生きている。」と、堂々と歩ませていただくのが念仏者であります。

S君、これまでの温かいお支え本当に有難うございました。これからも娑婆に取り残されている私をお導き下さることを願うばかりです。

              南無阿弥陀仏   南無阿弥陀仏


                            三宝寺住職 湯川逸紀










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